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わくわく挿絵帖
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国貞2
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 歌川国貞(1786-1865)を詳細にみていくと、仕事がおそろしく丹念なのに驚きます。一つひとつ細部まで、およそ不明瞭なところがありません。
 例えば眉毛ばかりか睫毛まで一本一本描いてみせ、また着物の柄の克明さは秀逸で、ファッション画としての資料価値も高そうです。さらに小物類や家具調度の正確な描写には頭が下がります。

 描き方としては、ありとあらゆるものを線でとらえ、その個体が何であるか納得確認しながら描いているのがよく分かります。
 つまり、このスタイルはどこを切りとっても、記号として読みとることが出来るようになっています。
 これは森羅万象、すべてを畏敬をもって同等にあつかうという、日本人がもつ宗教観と関係がありそうです。
 そして、このあたりに圧倒的に大衆に指示された理由もありそうです。

 しかしながら、この画風は成功するとすばらしい緊張感のある絢爛たる世界をうみますが、気を抜くと丁寧な仕上げに関わらず、まとまりに欠ける緩慢な印象になります。彼にはこの手の絵が多数あります。
 これはぼくが愚考するに、売れ過ぎた画家の宿命であり、全体の構成より注文主の要望や販促を優先した浮世絵がこの時代背負った使命のためと思われます。
 このことはむしろ、半ば広告やカタログのような絵もけっして厭わなかった国貞の真骨頂と今ではぼくは理解しています。
 やはりこれは、浮世絵師のあるべき姿の到達点と言わざるえません。

# by arihideharu | 2018-02-14 18:33 | | Comments(0)
国貞
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 ここしばらく歌川国貞(1786-1865)ばかり眺めています。
 彼は若い時分から晩年まで売れ続け、浮世絵史上最大の作品量を誇った画家と言われています。
 特徴は迷いのない派手さと勢いにあります。この画風は堅牢な型となり江戸末期歌川派の中心として、多くの門人と影響を後世に残しました。

 ところが、ぼくはこの絵が大の苦手で、今まで素通りしてきました。というのは、どれも同じに見えたからです。
 例えば、北斉・写楽・広重などは作家性が強く、子供でも十分楽しめるほど時代を越えた力がありますが、この国貞の量産型画風は、ほとんどが風俗画だけに時代を経ると、ぴんとこない宿命がどうしてもあります。加えて、この派手過ぎる画風の中に、どこか堅気相手ではない臭いがします。
 そんなこともあり、ぼくは長い間、国貞の絵は苦手でした。

 ところがここへ来て、国貞に興味を持ち始めたのは、今までぴんとこない部分が自然にぴんと来るようになってきたからで、どうやら彼の生きていた時代の日常がぼくの中に少しづつ馴染んできたようなのです。

 絵の定義は色々ありそうですが、絵を記号と見ることは可能です。記号は言葉に置き換えられます。
 しかし絵画の中には、記号化や言葉化を拒否しているものがあります。例えば抽象画です。
 また逆に、記号として描かれた絵や図とした描かれた絵もあります。これは言葉の替わり、意味を伝えるための絵です。
 あるいは、記号をちりばめ思想や物語を伝えようとする絵もあります。
 しかしながら、近代絵画は記号の量をおさえ絶対美をもとめました。

 さて風俗画です。これは記号を散りばめていますが、さしたる意味や思想はありません。ただただ世俗のあり様を恰好よく描くことに主眼が置かれます。
 こういう種類の絵はその時代には喝采を浴びますが、時間が経過すると評価が下がり、時には消耗品扱いされ差別されることがよくあります。
 この歌川豊国は希代の風俗画家の巨匠ですが、さりとてその例外をまぬがれることは出来ません。
 何故なら、彼の一世風靡した役者絵や美人画の手柄は、記号数をおさえた東州斉写楽や喜多川歌麿に独占されているからです。

 しかしながら、この国貞を芸術至上主義をすて、散りばめられた記号の意味を腹におさめれば、とてつもなく豊穣なる地平が見えてきます。
 これは絵を読み込むという、ぼくが今まで使ってこなかった脳細胞を使うことになります。

# by arihideharu | 2018-01-22 19:54 | | Comments(0)
新年明けましておめでとうございます。
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明けましておめでとうございます。
佳き年でありますようお祈り申し上げます。

# by arihideharu | 2018-01-01 10:51 | 暮らし | Comments(0)
撮影所史観
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 鈴木春信(1725?〜1770)、喜多川歌麿(1753?〜1806)、歌川国貞(1786〜1865)の美人画を眺めていると映画やテレビの時代劇の風俗は、どうやら明治以降のそれを基本に置いていることが見えてきます。

 先ず一番に目につくものは、女性の着物の着こなしです。
 現代の感覚からしたら奇妙に見えますが、江戸文化の成熟期は成人女子の着物は丈が長くなり、武家や商家の屋内では裾をひきずる丈で着るのが常態でした。
 しかし、外出のときは当然じゃまですから片手で裾を持ち上げ、あるいは少し遠出のときは、手で持つかわり「しごき」と呼ばれる柔らかい帯で着物の上から結んでおさえました。
 ファッションは変遷します。
 明治に入ると、日常的着付けは腰のあたりで長い裾を「しごき」を使って、「おはしょり」つまり折り返しを作り、引きずらない程度まで丈を調整するようになります。このとき「しごき」は折り返しの内側に結び、その上から帯を結びます。
 時代劇映画は初期段階から、このスタイルを採用します。
 要するに、映画やテレビの時代劇で見る女性の着付けは、江戸期のものではなく、ほとんど現代のものということになります。

 もう一つは髪型です。
 成人女子の髪型は江戸中期以降、四つのパーツに分けて結うのが一般化します。
 正面から見ると前髪と呼ばれる、額の上二三寸を頭頂で束ねた三角形の部分と左右の耳の上をひさしのように被さる鬢(びん)。頭頂からやや後で様々な形で結ばれる髷(まげ)。襟足から上、髱(たぼ)と呼ばれる後ろ髪の四つです。

 この四つのパーツは時代によって身分年齢によって、変化します。
 しかし、ほぼ変わらないパーツが一つあります。
 それは前髪です。
 
 浮世絵を見る限り前髪は頭の輪郭にそって、きりっと頭頂で結ばれているのが大方です。
 ところが時代劇の日本髪では、この前髪が大きく膨らんでいます。
 これは田舎芝居のような段階から始まった活動写真ですから、カツラのクォリティーの問題もあったと思います。
 しかしながら、ぼくはかなりの部分、明治以降の髪型の流行が影響したと思っています。
 幕末から明治以降の日本髪の変遷を写真で見ていくと、あきらかに前髪の形状が変わり、前に突き出すように大きく膨らんでいます。
 日本映画の黎明期を考えれば、撮り始めた連中は明治生まれで、彼らにとって江戸時代は手の届く範囲でした。日常的に誰もが着物を着て、日本髪の女性がたえず側にいますから、男子のチョン髷と帯刀を除いたら、風俗は江戸期とさして変わらないと、ザックリ考えていたと想像できます。
 まして撮影所があった京都は歴史の跡が色濃く、新撰組の騒動や蛤御門の戦も間近に見た者が生きていたことでしょうし、この錯覚が安易に普段着とちょっとした芝居装束だけで時代劇が出来ると当事者たちは胸算用したに違いありません。
 おそらく、ここで作り上げたノウハウが、その後の撮影所史観になっていったと考えられます。

*あわせて『「赤ひげ」における帯締め』 http://sashieari.exblog.jp/17283180/をお読みくだされば幸いです。
 

# by arihideharu | 2017-12-06 20:14 | 挿絵 | Comments(0)
正座

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 歌舞伎を観ていて、いつも感心することは「よくもまあ板の上で微動だにせず、長いこと正座が出来るものだ」です。

 かつて学校の体罰で廊下で正座というのがありました。まだ今よりはるかに正座文化が残っていた時代です。それでもやはり板の間の正座は誰もが苦痛でした。

 江戸期から昭和のある時期まで、日本の隅々まで行き渡った文化としての正座も、いまや特殊技能の感があります。
 おそらくそのためでしょう。近ごろの時代劇では武家でも商家でも、男たちがやたらと胡座をかくシーンが目につきます。
 
 中村錦之介という恐ろしく上手な映画スターがいました。
 彼はただ座る立つだけで育ちや身分・性格まで表していました。
 これは歌舞伎の所作の定型を、彼独特の仕方で昇華させた結果だと思われます。
 また、生涯二枚目で通した長谷川一夫は座った姿に何とも言えない美しさがありました。それは正座のときだけでなく、胡座や横座りのときでも、自然で流れるような気品と色気がありました。

 さてこの正座、板の間に素足のときが一番きついわけですが、ここに足袋一枚・薄縁一枚かませるだけで少し楽になり、畳敷きなら相当楽になります。さらに座布団でも敷いたものなら極楽ということになります。

 江戸期のお城や役所は座敷だけでなく廊下の畳敷きも増え、出仕の侍たちはそれまで胡座ですんでいたものが、職務中は常に正座を余儀なくされます。
 ですから、禄を離れ浪人になった者は、先ずは膝をくずす癖がついたと想像できます。
 
 映画『椿三十郎』(1962年)で藩中の育ちの良さそうな若侍たちに、浪人の三十郎が侮蔑されるのは、まさにこの点でした。
 また、『赤ひげ』(1965年)で新米医者が夕食の膳を前にして、いきなり胡座をかいたのは、反抗と抗議の表象化で、学生運動が続く時代でしたから、胡座は反体制のシンボルのように見えました。
 
 正座は武家だけではなく接客業の商家も同様で、大店の奉公人だけではなく小店でも、丁稚小女のころより正座が身につき、むしろ膝をくずした方が疲れるようになったことが想像できます。
 
 実際、ぼくの明治生まれの祖母は、いつでもどこでもぺたっと座り膝をくずすことはなく「くずすと余計疲れる」とよく言っていましたし、行儀がさしてよくなかった大正生まれの父も食事のときは正座が常でした。
 したがって、ぼく的には近代化とは正座を捨てることではなかったかと思えるほどです。

 ちなみに、ぼくは正座がめっぽう苦手です。

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# by arihideharu | 2017-11-02 21:05 | 映画・演劇 | Comments(0)