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わくわく挿絵帖
sashieari.exblog.jp
東京ポッド許可局
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 ラジオ好きのぼくが今一番面白いと思う番組は、TBS『東京ポッド許可局』です。
 これは3人組の知的水準の高いお笑い芸人が1秒の間も置かず、およそ荒唐無稽な話題を小理屈と屁理屈で埋め尽くすというものです。
 自明のことですが、気のきいた小理屈・屁理屈ほど面白く可笑しいものはありません。

 ぼくが若いころ、世の中には小理屈と屁理屈が満ちあふれていました。
 それは言論が封殺された戦時中の反動が後押しして、あらゆるエネルギーが負け戦の言い訳に注がれていたからです。
 そのとき、思想とは言い訳の別名かと思ったほどです。

 それからしばらくすると、小理屈・屁理屈の対象が変わっていきます。社会や歴史という見えないものから、日常の見えるもの触れるものへです。

 伊丹十三は映画を撮るまえ文筆家として、ざるにはさまった最後の一本の蕎麦を、いかにスマートにつまむかとか、スパゲッティの麺と具を、きれいにフォークでからめ取る方法にウン蓄を傾けていました。
 また、無頼派の作家壇一雄は小説より、手慰みの料理本のほうが売れます。
 沢木耕太郎は思想よりボクシングや冒険を語るほうが格好イイことを教えます。
 そしてタモリが登場し、思想を笑いに変えます。
 
 これらは不毛な言い訳よりよっぽど面白く、少なくとも論争をして険悪になるより、美味しい酒食や笑いは人を幸せな気持ちにしてくれます。
 
 多分この流れの中に今もあり、この先人たちの巧妙な芸は一般化と群小化の道をたどり、市場は拡大の一途のようです。
 時折、この市場で一番潤ったのはグルメとスポーツと冒険ネタをこなせるお笑いタレントかなと、テレビをつける度に思います。

 そして、ここ数十年で分かったことは、すべての言説は笑いをともなった方が伝わりやすいということです。
 たとえ見当違いや間違ったことをを言っても、笑いをとれば許容され、正論を論破することも可能です。となれば、すべての論客は笑いをとる必要があります。
 しかしながら、笑いをとろうとする論客ほど胡散臭く白けるものはありません。
 下手をすると真っ当なことを言っても、信じてもらえない事態が起こり得ます。
 ことほどかように、笑いをとるとは誠にむずかしいものです。

 以上のような小理屈は、すべて「東京ポッド許可局」で毎回語られていることです。

# by arihideharu | 2017-08-24 14:49 | 暮らし | Comments(0)
女優を美しく見せるトム・クルーズ作品
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 女優を美しく見せるといえば、いつも感心するのはトム・クルーズ作品にでる女優が、どれもはずれなく魅力的なことです。
 しかも同じ女優を繰り返し使うことなく、作品ごとに変えてこの結果です。実に驚くべきことだと思っています。

 ぼくがトム・クルーズ作品に興味を持ち始めたのは、ご多分に漏れず『ミッション・インポッシブル』(1996年)『マイノリティー・リポート』(2002年)以降です。
 元来ハードボイルドとSFが大好きなぼくにとって、彼が交互にこのジャンルを作り出し、秀作を連発していることは近年の慶事です。

 特にお気に入りは『オブリビオン』(2013年)『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014年)『アウトロー』(2013年)で、ここに登場する女優は一段ときれいに撮れているというのがぼくの感想です。

 そして特筆すべきは『アウトロー』のヒロインの年増の敏腕女弁護士(ロザムンド・パイク)がジャック・リーチャー(トム・クルーズ)とのやり取りで、徐々にウブな女学生のように顔が上気していくのが見てとれることです。
 画面には互いのフェロモンが絡みあっているのが見えるようです。
 やっとここで、トム・クルーズの仕掛けと特性にぼくは気がつきます。
 
 彼はまず女優との距離が、異常に接近した所に立ちます。常識より一歩も二歩も踏み込むのです。そして視線を1ミリもずらすことなく真っ直ぐ見つめ、一定の速度で少々の笑みを見せつつ語りかけます。
 おそらくここで、女は男が放つ危険な臭いに気がつきます。すると餌にかかった獲物のように、いかなる女も徐々におとなしくなり、催眠術にかけられたように心と身体が開いていきます。
 
 これはトム・クルーズのキャリアと特性が発揮された場面で、会話がなくとも役者同士の呼吸から十分なリアリティーが伝わります。
 しかし何度も観ているうち、この仕掛けはイイ女だけにしていることではなく、いかなる時と場合でも変わらぬ彼の基本動作(間合い)であることが分かってきます。
 これは大物相手でもチンピラ相手でも、また男女に関係なく、いわば武芸者の理想とする目付けで、相手の呼吸を掌中にし、戦いの備えにする不敗の構えといえます。

 ところが2作目の『ジャック・リーチャー』(2016年)ではこの構えが乱れます。踏み込みが一歩足りません。その結果、彼らしくないミスを連発します。
 どうやら自分の娘かもしれない不良少女が現れ、無敗の武人に心の乱れがわずかに生じたようです。
 たったそれだけのことですが、画面から彼のハードボイルド指数が下がり、フェロモンの分泌も低下しているのが見て取れます。
 しかしながらこの映画が失敗作かと言えば、そうではなく、活劇の醍醐味はぐっと下がりますが、不調な時でも、なんとか勝ちにもっていくエースの姿が垣間見え、捨てがたい一本です。
 勿論共演女優も魅力的で、作品の欠点を彼女が救っているとぼくは思います。

# by arihideharu | 2017-07-25 14:14 | 映画・演劇 | Comments(0)
映画『ラ・ラ・ランド』
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 ぼくは『ウエスト・サイド物語』を観て映画好きになった口なので、基本的にミュージカル映画は大好物です。
 ミュージカルの圧倒する武器は、歌と踊りで情感やテーマを直接五感に伝えてしまうことです。
 ですから、ストーリーを難しく凝る必要もなく、むしろ単純でいいくらいで、あとは主人公のカップルがチャーミングでありさえすれば満足するという基本構造があります。
 その意味でいえば『ラ・ラ・ランド』は大成功だったと思います。ぼくはかなり満足しました。

 すべての芸術は、古いものをどれだけ新しく見せることにあります。
 表現者に課せられた命題です。
 『ラ・ラ・ランド』がハリウッドを舞台にしたのは、まさにこの点で、女優を目指す  
 田舎娘と野心に溢れた若きジャズピアニストとの恋という、古いアメリカ映画にありそうな設定です。作り手のうぬぼれが透けて見えるようです。
 まさに芸術の命題を実現しようという訳なのですから。

 作業は思いつく限りの名作のフォーマットを並べ、上書きしていくことになります。
 これは表現者を目指す者なら誰でも子供のころから頭の中で無数にやってきたことです。
 ただ実際にやってみるとなると問題は別です。
 この作業は多分、デリケートな天才には無理で、蛮勇が身についた者が出来ることで、また選ばれた者だけが出来る仕事です。

 しかしながら、名作の上書きに成功したのは冒頭の高速道路での群舞合唱のシーンぐらいで、あとは名作をなぞっただけで、かつての名作名演を凌ぐことなどやはり無理です。
 それでもぼくが満足したのは、久しぶりにハリウッドを舞台にしたミュージカルを観たという、日照りに慈雨のような充足感と、やはり歌と踊りという最も古い芸能の形は祝祭感にあふれ、身体のほうが勝手に反応してしまったからでしょう。

 上書きしたものがもう一つあります。
 かつてのハリウッド映画は女優を美しく見せることに心血を注ぎました。
『ピグマリオン』は『マイ・フェア・レディ』だけのテーマではなく、ハリウッドそのもののテーマで、観客も美しき虚構を求め喝采を送ってきました。
 しかし、『ラ・ラ・ランド』はヒロインの肌の荒れやシワをかくしませんでした。美しく見せる努力をしてないようです。
 ぼくは違和感を感じました。

 ハリウッド映画は長らく美の基準でした。ここで作られた虚構に世界中が魅せられてきたのです。
 たとえ淑女のヒロインが実生活で結婚と離婚を繰り返し、酒とドラックにまみれようと、醜聞は時には映画以上の美味であり、幕間のもう一つのエンターテイメントです。
 しかしハリウッドの矜持は常にスクリーン上で女優を美しく見せることでした。
 美しさはすべてを超克し、神を降臨させます。
 ハリウッドは史上まれにみる質量で虚構を作り続け、あまたの神々を呼び込む現状最強の聖地です。

 有史以来ぼくらは真実を糧とするより、虚構を好物の餌として生きてきました。
 祝祭は人間界の中心にあり、人々は化粧をし仮面をつけ歌い踊り、極に達したとき生と死・善と悪・強と弱、すべての境界を乗り越え恍惚の中に神を導き入れ、生きる力を得てきたのです。
 そしてミュージカルは歴史に耐え、今も公式に認められた神の恩恵を授ける儀式です。

 そこに、化粧気のないヒロインが登場します。
 これはかつてハリウッド映画と違うという目印です。
 おとぎ話のようなハッピーエンドで終わらないという暗示です。
 と同時に、アフロディーテの祝福を受けた田舎娘と、オルフェウスがのりうつるピアノ弾きの恋は、古典をなぞるなら悲劇で終わる定めです。
 幸福は常に神々の嫉妬を受けるからです。

 しかし、この恋が本物なら無数の転生を繰り返し、時には添い遂げ、時にはアダとなって、果てのない物語として二人の関係は永遠に続きます。

 この映画は後半、現実と仮想が交差を繰り返し、主語が限りなく希薄になりフェードアウトします。

# by arihideharu | 2017-06-13 22:40 | 映画・演劇 | Comments(0)
秋山小兵衛
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 ときどき無性に読みたくなる本に、池波正太郎の時代小説があります。
 20年以上前、今の家に引っ越したとき本をだいぶ整理しました。その中には読み終えた池波本もかなり混じっていました。
 間もなく『剣客商売』や『鬼平』の新刊が出たので読み始めました。すると止まらなくなり、結局旧作を買い直すことになってしまいました。不覚でした。
 それほど、池波作品には魅力があります。

 そして今はオーディオブックをダウンロードし、仕事をしながら耳で楽しんでいます。
 ぼくのお気に入りは『剣客商売』です。聞いていると、「近頃の時代小説とちょっと違うな」と思うことがあります。

 例えば、老剣客秋山小兵衛は剣を交えるとなると熾烈で、敵の手足を斬り落とすか殺すかで、雑魚相手ならともかく峰打ちなどという、まどろっこしいことはしません。

 近年、時代小説はいつの間にか人にやさしい剣客像になっていて、簡単に人を斬らなくなっているという印象があり、多分そのせいでしょう、小平衛老人の剣が鉄槌のような激しさを覚えます。 

 また、息子大治郎が剣をとったときも「斬ってもかまわぬ」と声をかけ、暗に「殺せ」と命じます。 
 一方、渡世の木刀試合となると「負けてやれ」と前途有望な息子の青年剣士に八百長をすすめたりします。
 さらに、懐が寒くなると裕福な旗本家のスキャンダルに首をつっこみ、礼金をたっぷりもらい嬉々とします。そして金離れもよく、仲間への分配も怠りません。
 このあたりが思いっきりハードボイルドです。
 
 優しさと厳しさの振れ幅の数値の大きさが、ハードボイルド指数と仮定します。
 振れ幅が少ない方がストレスが少ない生活といえ、その分ハードボイルド指数が低くなります。
 秋山小兵衛のハードボイルド指数はかなり高めです。
 この数値が高いと、老齢であっても性欲が異常に高まる傾向があるようです。

 秋山小兵衛の肖像画を描くとしたら、市井と交わりながら酒色を楽しみ、剣の道を極めようとする、大げさに言えば親鸞上人のような姿ということなのでしょうか。

 秋山小兵衛は「極悪非道の者が日常的に喜んで善行を行い、善人とみえる者が危うい嘘の上に生活を営む。人は善と悪をたえず行き来して生きているものだ」と言います。

 小兵衛が人を斬るは、いわゆる引導を渡す行為で、刹那閻魔さまを憑依させます。
 この行為は本来人の領分を越えています。ですから、行使し過ぎると人格障害をおこす可能性があります。
 歴史上の暴君の例を出すまでもなく、ハードボイルド小説の主人公がアル中であったり、シャーロック・ホームズが薬中であったりというのは、安全装置が機能している状態と考えられます。

 秋山小兵衛の日常がうららかに見えるのは、若過ぎる女房をもらったり、自由に使える桁外れの大金を手に入れたりと、めぐまれた安全装置が用意されているからです。
 勿論それらは小説だから出来ることで、このあざとさが池波作品の魅力です。

# by arihideharu | 2017-03-29 21:33 | 読書 | Comments(0)
肩飾り
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 いつぞや歌舞伎座で『義経千本桜 鳥居前』を見ていたら、花道から鬼退治の桃太郎のような格好の陣羽織姿の若侍(義経)が出てきました。
 ぼくはそのとき軽いめまいを覚えながら膝を叩き、なるほどと一人納得しました。
 というのは、その陣羽織に肩章のような派手な肩飾りがついていたからです。
 
 陣羽織の肩章は、明治維新時の西洋の影響をうけたスタイル(階級章)だということは、一般に知られています。
 実際、様々な武将図を見ても先の若侍のような陣羽織は見あたりません。
 
 ところが、頻度は多くはありませんが戦前のスチール写真を見ても、戦後の全盛期の映画を見ても、はたまた最近の戦国期を描く映画を見ても、肩章つき陣羽織を見つけることはさほど難しくありません。
 
 実は近年、この陣羽織のミスマッチが増殖しているのではないかと密かにぼくは思っています。
 理由は、テレビバラエティー等での戦国武将の再現ビデオや全国に出没するコスプレーヤーたちの画像にこの組み合わせをよく見かけるからです。

 冒頭の観劇でひとりごちたのは、花道から義経が登場したとき、ぼくは中村錦之介・主演『独眼竜政宗』(1959年)での若武者姿がフラッシュバックしたことにあります。
 派手な肩飾りがついた陣羽織をまとい、颯爽とした若武者ぶりがそっくりだと思ったのです。
 と同時に陣羽織の誤用のもとは、ここにあったのかと直感したのでした。

 考えるに、義経と政宗は東国ゆかりの雄という共通項があり、また歌舞伎をトレースして始まった時代劇ですから、伊達政宗を描くとき義経の衣装から想を得た可能性は大いにあり得ます。

 おそらく、このスタイルは幕末の動乱期に、官軍の将がまとった陣羽織を見た江戸の芝居者が、目ざとく取り入れたと想像できます。

 これらの世界観は時代考証(科学)的それとは違う芸能世界独特の外連(けれん)の神を信じる輩の世界観で、時代劇全盛期、東映に色濃くあらわれていました。

 古来芸能者は体制の外に棲み、歴史を縦横無尽に飛び廻り、六道を輪廻転生しながら無数のパラレルワールドの物語をつむぎ出してきた者たちです。

 花道から若侍が出てきたとき、ぼくが軽いめまいを覚えたのは、時空のゆがみをに引き込まれたせいだったのでしょう。

 しかしながら、この衣装の発信元は時代を超えて同一で、出雲の阿国の頃より古く、京都あたりで動乱と圧政の度に栄えた古物商や古着屋の末裔ではないかと思いを巡らしています。

# by arihideharu | 2017-03-11 21:49 | 映画・演劇 | Comments(0)