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わくわく挿絵帖
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「わくわく挿絵帖」がいよいよ本になります。


 「わくわく挿絵帖」がなんと本になります。

 平凡社より来月(5月)23日にエッセ一集として出すことになりました。

 2009年12月より始めた、このブログをもとに加筆し、モノクロの挿絵を多数入れた画文集ともいえる体裁になっています。

 正直、文章の方は読むことはあっても書くことはなかったので、未熟なのは自覚していました。ですから、この企画を去年の夏に戴いたときはもちろん嬉しかったのですが、不安も相当ありました。それは今も変わっていません。

 しかし、一方で文章を書くことは面白いと感じ始めていました。ということは絵と同様の根気で取り組んでいけば、それなりの世界がひらけるのではないかと考えました。

 何故なら、ぼくが絵を描き続けているのは「絵が下手だ」と思う自分と「上手くなりたい」と思う自分が、いつも側にいるからで……、この構造が文章でも成り立つかもしれないと考えたのです。

 さて、「わくわく挿絵帖」はぼくの頭に長く棲むイメージの断片を絵と言葉でつづった物語です。ぼくにとって、日常と空想は同じ次元に混在しています。これが挿絵画家の日常で、それを本にしました。

 多くのみなさまが読んで下されば幸いです。

# by arihideharu | 2012-05-24 17:01 | 読書 | Trackback | Comments(0)
絵ぐみ


挿絵を描くにあたり「絵ぐみ」という作業方法があります。それは小説の方が締め切り間近に関わらず、脱稿のメドがたたず、小説に先立って挿絵を入稿する、絵を組んでしまうことをいいます。その場合は小説家の方から編集者をとおし、ファクスやメールで絵柄の指示が入ります。

例えば、「チャンバラ。侍が刀を構えているところ」という具合です。

実はここで困った問題があります。絵ぐみの場合、この段階においても小説家の頭の中に書くべきストーリーが見えていないことが多々あるからです。つまり具体的な絵のイメージがないまま絵の指示をしている可能性があるのです。

この場合だと、侍がどんな侍か明記されていません。
ということは、小説家は苦しまぎれに「絵ぐみ」を指示をした可能性あります。

いずれにしろ、挿絵画家としては踏み込んで描くことはできませんから、絵を描くというより、かなりアバウトな「図を描く」という作業になります。ぼくにとってはかなり窮屈な作業です。しかも、仕上がった小説には、チャンバラもなければ刀を抜く場面さえ出てこない事態も時々起きます。小説家はこの時点で相当追い込まれ、「絵ぐみ」のアイディアどころではなかったと思われます。

この「絵ぐみ」、小説家の中には上手い指示を出す方もいます。

20年ほど前、ぼくがまだ現代小説の挿絵を描いていたころです。推理小説家、佐野洋さんの挿絵を描くことがありました。佐野さんは遅筆で有名な短編の名手です。したがって、いつも「絵ぐみ」でした。

締め切り間際になって、ファックスが入ります。例えばこんな短文です。

「男女がコーヒーを飲んでいるところ」

これだけなら、普通の「絵ぐみ」です。ぼくは、男女の年格好も不明ですから、差し障りのない図を描くしかありません。佐野さんが他の作家とちょっと違うのは、そこにもう一言、暗号のような言葉が入ります。例えば……。

「キーワードはうそ」といった具合です。

これで俄然、絵は動き出します。ぼくは図ではなく絵のアイディアがうかびます。

この佐野さんのエピソードを思い出したのは、彼の「絵ぐみ」の指示書は今思えば、前回テーマにした俳句の趣あったなと思ったからです。

# by arihideharu | 2012-05-11 11:30 | 挿絵 | Trackback | Comments(0)
句集『其角俳句の江戸の春』


 去年の夏から昼食のたびに、句集『其角俳句の江戸の春』(半藤一利・著)を開いています。一日一句を読むことを目指しながら、読解力の低さから遅々として進まず、それでもなんとか三分の二を過ぎるところまできました。

 ぼくは今までこの手の本は読んだことがありませんでした。というのも、人間には二種類あると思っていて……、それは詩歌を読んで楽しめる人とそうでない人です。ぼくは後者の典型で、十代から何度か詩集や歌集に挑戦してきましたが、ぼくの頭は結局分かりやすい散文にしか反応しないと悟り、読むのを諦めてきたのです。

 ところがさすがに俳句は庶民の文学で、読めばそれなりにイメージがつかめるように出来ています。その上、其角俳句の魅力もさることながら、半藤さんの解説が秀逸で飽きさせないのが続いている理由だと思っています。句集がこれほど面白いとは知りませんでした。

 そして今は、俳句は絵を描く人間とは相性がイイのかもしれないと思い始めています。というのは俳句は十七文字の中に名詞が必ず複数含まれ、その連想から言葉の理解より先に、簡単な絵がうかぶ仕掛けになっていると気がついたからです。さらに解説を読み、句を理解する段階になると名句のパワーが発揮され、今度は相当いい絵がうかんできて、想像力が刺激されていきます。

 例えば、「ねこの子のくんづほぐれつ胡蝶哉」
これなどは応挙あたりが描いていそうです。画題にしてみたくなる一句です。

 「酒の瀑布冷麦の九天より落るならむ」
これは其角の身体にすむ蚤が、酒の匂う袖口あたりで見た景色でしょうか、ケレン技の得意な国芳か赤塚不二夫の漫画で見たいものです。いや、アニメーションの方が面白いかもしれません。

 「冬来ては案山子のとまる鴉かな」
これなど誰が描いても比較的似た絵柄になりそうですが、絵描きのセンスが試されそうでちょっと怖い感じがします。

 この三つは其角俳句の中で、かなり絵画的かつ分かり易い句の方で、大体は解説を読まなければチンプンカンプンで、句と解説を行ったり来たりしながら読んでいきます。

 いずれにしろ、一つひとつ読んでいく呼吸は、ミュージアムの壁にかかる絵画を一枚一枚観ていく呼吸に似ています。

# by arihideharu | 2012-04-23 22:48 | 読書 | Trackback | Comments(0)
肖像画


 時々無性に食べたくなる近くのラーメン屋の壁に、中華麺の歴史を紹介するポスターが貼ってあります。それには大仰にも歴代の中国皇帝の肖像画が十点余り顔だけトレミングして、飾りとして使っています。
 
 ラーメンを食べながらその肖像を見ていたら、その半分以上が真正面から描かれていることに気がつきました。シンメトリーの構図です。ぼくはちょっと驚きました。

 日本の古い人物描写は真正面から描くことは稀です。天皇や将軍の肖像にしても少し斜めから描くのが常です。ごくたまに滑稽さを表現するためにあえて真正面を使うことがあります。おかめひょっとこの類です。あとは群像の中で貴人を浮き立たせるために、ひとりだけ正面を向かせることがあります。「そう!」、仏画はシンメトリーですがこれは例外です。

 ここまでは連想ゲームのように、ラーメンを食べているうちに浮かびました。すると朝鮮など他の国はどうなんだろうという疑問が生まれます。

 さっそく家に帰って朝鮮王の肖像画をネットで検索しました。中国の遣り方を踏襲しています。琉球もこの遣り方です。東南アジアはよくわかりませんでした。

 日本はこのシンメトリーの構図が嫌いらしいという事実が少し浮かび上がります。

 ところが写真の時代に入り状況が変わります。我々は真正面の顔に違和感を覚えなくなります。現在ほとんどの写真ポートレートはこれです。現代人は肖像画においては皇帝並みというこでしょうか。

 人物を左右対称に表現するのは極めて原始的遣り方です。幼児は正面の顔しか描けません。しかし最も力強い方法です。

# by arihideharu | 2012-03-19 04:38 | | Trackback | Comments(0)
着流しに二本差し


 ぼくは当然のことながら刀を差して町を歩いたことはありませんが、着流しに二本差しで町歩きをしたらどうなるかと、時々考えることがあります。というのは袴を着けての二本差しなら、帯と何重にも巻かれた紐でかなりしっかり刀をおさえることが出来ますが、帯だけで着る着流し姿では刀をおさえておく力が弱いと思うからです。よほど気をつけていないと着物は着崩れ刀はずり落ち、みっともないことになりそうです。
 
 予防策として常に刀の柄(つか)を手や腕で押さえておく必要がありそうなのは容易に想像がつきます。あと考えられるのは、出来るだけ細くて軽い刀を二本差すか、お医者や渡世人のように一本差しにすることです。

 文化文政期の江戸文化花盛りのころの勝川派の役者絵を見ると、着流しを裾長にぞろりと着て細身の長い刀を差した侍の姿が描かれています。これが当時の美意識だったのでしょう。


# by arihideharu | 2012-02-29 23:33 | 挿絵 | Trackback | Comments(0)
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