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わくわく挿絵帖
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空中歩行
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 学生時代、新宿で夜間のアルバイトをいていたときのことです。今でも思い出すとあまりに不思議で、幻を見たのかと今は思っています。

 そのバイトは終わるのが11時半前後で、走り込んでやっと終電に間に合うとういうことがしばしばでした。終電は朝夕のラッシュとさほど変わらぬ混雑で、ぼくは座ることも叶わぬまま文庫本を片手にその当時住んでいた国立までの往復を繰り返していました。

 その日は祭日だったと思います。いやに新宿駅のホームがすいていて、遠くまで見渡せるほどでした。ぼくは南口から乗り込むので、中央線ホームの下り後尾側で待つのが常でした。終電に間に合ったのにホッとしたぼくは缶ビールを買って、煙草に火をつけました。

 ひとごごちついて周りを見る余裕が生まれました。柱を二つばかり隔てた最後尾のホームに、めずらしく羽織を着た和服姿のおじさんが目に入りました。だいぶおつむが薄くなり小太りで、後ろ手に信玄袋をぶら下げています。気がかりなことがあるのか、せわしく3メートル程の幅を往ったり来たりしています。

 それだけなら、すぐ忘れてしまったことでしょう。ところがそのおじさんの場合、往復の軌道が線路と平行ならまだしも直角に往き来をし、踵を返すポイントが白線の外側に徐々に移ってきているのが分かったのです。ぼくは残り少なくなった缶ビールを飲みながら観察を強めました。

 まもなく3回に1回はUターンのポイントがホームと線路の境界線すれすれまで来ました。

 「あぶない!」と小さく叫びました。片足がホームから出たのです。そして、もう一つの足も…。
 
 ところが、あろうことか空中でおじさんは踵を返してホームへ返って来たのです。おじさんは何ごともなかったように顔色ひとつ変わりません。

 そのとき、ホームに終電が入りました。ぼくは慌ただしく空の缶ビールをゴミ箱に入れ、電車に乗り込みました。ひさしぶりに座席に座りゆったりしたぼくは、今見た一瞬の出来事をどう捉えていいのか考えあぐねていました。

 この思い出話は半分はフィクションです。勿論、空中歩行の場面です。その頃読んだ小説がヒントになっています。ぼくは帰りの電車で読むものがなくなると、こんな空想をして遊んでいました。そして、その空想がさっぱりストーリー展開しないので、小説家には向いていないなと思い至るころ、目的地に着くという具合でした。

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by arihideharu | 2010-10-24 04:06 | 思い出
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