ブログトップ | ログイン
わくわく挿絵帖
sashieari.exblog.jp
この世に身を置く確かさ
b0185193_232849100.jpg


 田舎育ちのおばあちゃん子というのはなかなかイイもんで、子守歌がわりに昔話しや世間話しを聞き、所作や心掛けを真顔で説かれ、年中行事の手伝いに、日々の散歩は墓参り、ご祝儀香典の度に墨を擦り、この世のことは金しだい、何より算盤勘定は大事だが、身の程知らずば己ばかりか家族一同身の破滅と因果をふくまされる。されど彼岸の度にぼた餅と五月の節句のチマキは子供の至福。

 気がつくと膝の上で遊んでいた時から、茶ばかり飲んで嫁の悪口から始まり苦労自慢、人の幸不幸と生き死にと、この世の移り変わりばかりかあの世のことまで聞いていたものだから、十になるころには自分の躰に様々な人の人生を宿しているような錯覚を覚える始末。

 おまけに人様と交わるより、空想したり工作するか絵を描くことが好きだったから、この世にいる時間が少なくなるありさま。やがて中学に入る頃色気づくと、世間との折り合いバランスの取り方に悩まされた。しかし、三つ子の魂なんとやら、基本は同じまま。このやり方で50年、これでよく所帯を持てたものだと思う次第。

 一口に絵描きといっても、これが商売になるのが不思議が道理。自分でもどうして成り立つのか分からない。お百姓が土を耕し米を作る程の確かさや、医者のようなに痛みや病根を断つ確かさもない。ただ、空想に耽っていただけの人生で、罪悪感が鈍痛のように常にある。世のため人のための人生もあったろうにと思う。
 
 加えて、この頃はEメールで仕事の依頼を受け、画像を添付して返せば、人に会わずに仕事が成り立つから、時々自分はこの世に存在しているのかと不安になる始末。

 ただ、幸いぼくには子供が3人いて、彼等の成長を見ていると自分が親として存在しているのに驚き、やっと自分もこの世に存在しているのに気づく。もしこれがなかったらぼくは狂っていたに違いない。

 子供の頃の確かな記憶、春の散らし寿司と夏の白玉、秋の栗ご飯と土瓶蒸、冬はきりたんぽ、つまみ食いとお代わりは孫の役得で、思えばこれがこの世へ未練の事始め。長じて、酒と肴を求める今の己の姿に似て、この時はさすがにこの世に身を置く確かさを噛みしめる。

b0185193_23392799.jpg

by arihideharu | 2011-09-17 23:44 | 思い出 | Comments(0)
<< 京都旅行 江戸の「粋」 >>