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わくわく挿絵帖
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写生
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 人によっては一、二歳から自分の記憶が鮮明な方もいるようですが、ぼくはボーと育ったらしく、幼児時代の記憶はそれはどなく、小学校の二、三年になってからやっと過去の自分の姿が浮かび上がってきます。

 その頃ぼくは三つ上の兄と日曜日に絵を習いに行っていました。教えていたのは通っていた小学校の担任の先生でした。そして習った場所はその先生の自宅で、といっても立派な家があったわけではなく、歩いて十分ほどの酒屋の二階の一室で奥さんと赤ちゃんとで間借りをしていました。行くとまだ朝食が終わってないときもあり、いつも大わらわで片付けて、さっきまでご飯を食べていた卓袱台の上に急拵えのモチーフを置いて、クレヨンや水彩で写生をしました。

 この先生の教えは一貫しており、この一室でも学校の教室でも、とにかく写生をすることがすべての基本ということでした。ですから図工の時間は天気がいいと大概は外へ画板を持って出かけました。

 先生が写生にこだわったのには訳があります。それは戦前の美術教育が、与えられた手本を忠実に写す事だけに終始し優劣を決めていたことへの強烈な批判があったためです。おそらく自分の創意とか工夫が否定された思いがあったのでしょう。

 ぼくは四年生まで担任をして戴きました。その間、授業中の無駄話は戦争中の話しが多かったと思います。彼は終戦まで海軍で飛行機乗りの訓練をしていたらしく、角兵衛獅子の小僧のようなきつい目にあったことや常に死ぬことを意識しながら生きていたことを事細かく話していました。といってもその当時の理解力では十分の一も分かっていなかったと思うのですが、彼の無念さだけは伝わりました。

 時には教室で人物画も沢山描きました。そのとき注意されたことがあります。「マンガのマネはするな!」です。言うまでもなく戦前の「のらくろ」から日本人の子供文化には漫画がありました。また彼自身も昼休みには生徒が持ってきた漫画雑誌を借りて眉間にシワを寄せて読んでいる男でしたが、写生に漫画のタッチが混じることだけは嫌いました。

 写生とは自然をありのままに自分の目と躰を通し描くことですから当然の教えでした。
 
 やがて高校生になって油絵を始め、青木繁や岸田劉生あるいは関根正二や村山槐多の写生を知り、彼の言っていた意味が分かるような気がしました。それは人の命が短かった時代、「生」を「写す」とは生きる喜びそのものだったということです。

 ただ大学に入り周りの友達の誰もが鉄腕アトムやミッキーマウスなど、そらで上手に描ける漫画キャラクターを幾つも持っているのに、ぼくは満足に描ける物が何にも持っていないことに自分でも驚いたことがあります。これはこの先生の教えの功罪だと思っています。しかし彼はぼくのまぎれない恩師です。

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by arihideharu | 2011-12-02 21:26 | 挿絵 | Comments(0)
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