小説を読んでいて主人公が魅力的な若者なのに、親の立場で読んでいる自分に気づき、ハッとすることがあります。歳をとったということが分かる瞬間です。近頃は慣れてきましたが、最初のころは驚きうろたえました。
驚きは想定をはるかに超える年月の過ぎる早さにあり、うろたえは自分の未熟さにあります。
少々大げさに例えるなら、頭の中は子どもなのに現実は年をとり、子を持つ親になった我が身の異形を姿見に初めて見た、モンスターの叫びといったところです。
ぼくの場合それは藤沢周平・著『蝉しぐれ』を何度目にかに読んだとき、最初のショックを受けました。
周知のように『蝉しぐれ』は逆境を乗り越え、少年剣士牧文四郎が恋と冒険の果てに、正義と幸せを手にする成長談です。同時に堂々たる青春小説で、誰もが好物とするところです。
ショックを受けたのは物語の前半です。
それは貧しいながらも幸福といえた少年時代の文四郎のエピソードです。
武家の子弟は、毎日学塾と武芸道場に通うのが習いです。
文四郎も毎朝出かけるのですが、なにしろ食い盛りです。いつのころからか文四郎は剣術道場前の屋台で、団子の買い食いを始めます。
とはいうものの彼の家は貧しいので、そんな余裕はあろうはずもありません。
しかしそこに友ありです。
生涯の友となる小和田逸平は家格が中級に属し、懐が少し暖かく、買い食いのパトロンとなります。
稽古を終えてからの団子食いは、少年剣士たちの至福の時です。仲の良い友と食うのなら、なおさらです。
そのことが母に知れます。
「小和田様ではどういう躾をしているのでしょうね」とつぶやきます。
母は内心激昂しつつも、静かに説教を始めます。
怒りの理由は想像できます。
ひとつは、買い食いは武家の子にとって褒められた行儀ではなく、また親にしてみれば、貧しくとも我が子に、ひもじい思いをさせた覚えはないという自負があります。そこに、空腹でも我慢をするのが侍だという考えも交差します。
さらに常識として、むやみに借りを作ることは、武家でなくとも世間を渡る上で、戒めなくてはならない第一義です。
しかし何よりいやなのが、目の前の我が子がしれっとし、恥じる様子を見せないことです。
そんな諸々のことが、文四郎の母を呆然とさせます。
ここに至り、ぼくは叱られる子の立場でなく、完全に親の立場で読んでいる自分に気がつきます。彼女の気持ちがぼくと同期しているのが分かったのです。
やがて文四郎の母は、この事件の解決方法を見つけます。
彼女は興奮をしずめ小銭を用意し、こう言います。
「外でお金を使っていいというのではありませんよ」
「万一のとき、恥をかかないためです」といって文四郎に渡します。
ぼくはウットリしました。なんて綺麗な諭し方なんだろうと思ったのです。
と同時に、このセリフは使えると思いました。
というのも息子たちが、少年期に入った現実があったからです。