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わくわく挿絵帖
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映画『ラ・ラ・ランド』
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 ぼくは『ウエスト・サイド物語』を観て映画好きになった口なので、基本的にミュージカル映画は大好物です。
 ミュージカルの圧倒する武器は、歌と踊りで情感やテーマを直接五感に伝えてしまうことです。
 ですから、ストーリーを難しく凝る必要もなく、むしろ単純でいいくらいで、あとは主人公のカップルがチャーミングでありさえすれば満足するという基本構造があります。
 その意味でいえば『ラ・ラ・ランド』は大成功だったと思います。ぼくはかなり満足しました。

 すべての芸術は、古いものをどれだけ新しく見せることにあります。
 表現者に課せられた命題です。
 『ラ・ラ・ランド』がハリウッドを舞台にしたのは、まさにこの点で、女優を目指す  
 田舎娘と野心に溢れた若きジャズピアニストとの恋という、古いアメリカ映画にありそうな設定です。作り手のうぬぼれが透けて見えるようです。
 まさに芸術の命題を実現しようという訳なのですから。

 作業は思いつく限りの名作のフォーマットを並べ、上書きしていくことになります。
 これは表現者を目指す者なら誰でも子供のころから頭の中で無数にやってきたことです。
 ただ実際にやってみるとなると問題は別です。
 この作業は多分、デリケートな天才には無理で、蛮勇が身についた者が出来ることで、また選ばれた者だけが出来る仕事です。

 しかしながら、名作の上書きに成功したのは冒頭の高速道路での群舞合唱のシーンぐらいで、あとは名作をなぞっただけで、かつての名作名演を凌ぐことなどやはり無理です。
 それでもぼくが満足したのは、久しぶりにハリウッドを舞台にしたミュージカルを観たという、日照りに慈雨のような充足感と、やはり歌と踊りという最も古い芸能の形は祝祭感にあふれ、身体のほうが勝手に反応してしまったからでしょう。

 上書きしたものがもう一つあります。
 かつてのハリウッド映画は女優を美しく見せることに心血を注ぎました。
『ピグマリオン』は『マイ・フェア・レディ』だけのテーマではなく、ハリウッドそのもののテーマで、観客も美しき虚構を求め喝采を送ってきました。
 しかし、『ラ・ラ・ランド』はヒロインの肌の荒れやシワをかくしませんでした。美しく見せる努力をしてないようです。
 ぼくは違和感を感じました。

 ハリウッド映画は長らく美の基準でした。ここで作られた虚構に世界中が魅せられてきたのです。
 たとえ淑女のヒロインが実生活で結婚と離婚を繰り返し、酒とドラックにまみれようと、醜聞は時には映画以上の美味であり、幕間のもう一つのエンターテイメントです。
 しかしハリウッドの矜持は常にスクリーン上で女優を美しく見せることでした。
 美しさはすべてを超克し、神を降臨させます。
 ハリウッドは史上まれにみる質量で虚構を作り続け、あまたの神々を呼び込む現状最強の聖地です。

 有史以来ぼくらは真実を糧とするより、虚構を好物の餌として生きてきました。
 祝祭は人間界の中心にあり、人々は化粧をし仮面をつけ歌い踊り、極に達したとき生と死・善と悪・強と弱、すべての境界を乗り越え恍惚の中に神を導き入れ、生きる力を得てきたのです。
 そしてミュージカルは歴史に耐え、今も公式に認められた神の恩恵を授ける儀式です。

 そこに、化粧気のないヒロインが登場します。
 これはかつてハリウッド映画と違うという目印です。
 おとぎ話のようなハッピーエンドで終わらないという暗示です。
 と同時に、アフロディーテの祝福を受けた田舎娘と、オルフェウスがのりうつるピアノ弾きの恋は、古典をなぞるなら悲劇で終わる定めです。
 幸福は常に神々の嫉妬を受けるからです。

 しかし、この恋が本物なら無数の転生を繰り返し、時には添い遂げ、時にはアダとなって、果てのない物語として二人の関係は永遠に続きます。

 この映画は後半、現実と仮想が交差を繰り返し、主語が限りなく希薄になりフェードアウトします。

by arihideharu | 2017-06-13 22:40 | 映画・演劇 | Comments(0)
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