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わくわく挿絵帖
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カテゴリ:挿絵( 39 )
剣客像
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 大昔のスチール写真を観ていて剣戟スターの中で、ぼくが圧倒的に立ち姿がきれいで絵を描くにあたり手本にしたいと思う役者は嵐寛寿郎と月形竜之介です。

 伊藤彦蔵という戦前戦後に活躍した希代の挿し絵画家がいました。
 彼の描く剣客は細身で、どこか上記の二人に似ています。
 また永倉新八という新撰組生き残りの剣客が、老齢になっての写真を残しています。
 痩躯に白い顎鬚をたくわえ凛とした姿で、晩年の嵐寛寿郎を思わせます。まさに剣客像のひな形を見るようです。
 
 実は挿し絵と映画は密接な関係がありました。
 先にあげた伊藤彦蔵は細密なペン画の絵師ですが、この画風は、当時大量に出廻った映画のスチール写真が大いに影響したとぼくは考えています。
 
 映画は変遷していきます。戦後になり黒澤明と三船敏郎のコンビが登場しチャンバラ映画が塗り替えられ剣客像が変わります。
 細身から大分マッチョになり剛剣のイメージになります。
 この変化に敏感に反応したのは、黎明期のレンタル漫画(貸し本)です。
 バタ臭い顔に長いもみ上げとボサボサ頭、三船敏郎の顔が浮かびます。そして黒澤映画独特の豪快なスピード感のある殺陣が同様に繰り広げられ、血しぶきを上げます。
 漫画はどんどん写実を追求し劇画と呼ばれるようになっていき、端正な剣客像からハードボイルドな剣客像に移っていきます。

 しかしながら黒澤映画を良く観ていくと、三船敏郎の殺陣は嵐勘十郎と同様に姿勢が常に垂直で乱れず、実は大いに端正であることが分かります。
 その後この剣客像はボリボリ頭をかき、すぐに胡座をかき酒をねだる、行儀の悪さだけが強調され本来の折り目の正しさが抜けていきます。
 

by arihideharu | 2017-10-01 15:58 | 挿絵 | Comments(0)
竹刀稽古
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 近衛十四郎という剣戟俳優は、随分長い柄(つか)と刃渡りの刀をきれいな弧を描いて振り回していました。
 テレビ時代劇を観なくなって久しいので、確信をもっていえませんが、近頃長い柄の刀を腰に差す侍や身にそぐわぬ長大な太刀をつかう小兵の侍など、あまり見なくなったとふと思いました。
 
 というのも、江戸期の竹刀稽古の様子を調べるつもりで『北斎漫画』を開きました。
 そこには現代剣道とくらべたら貧相ですが、基本変わらない防具をつけた竹刀稽古の様子が描かれています。
 ただ、竹刀は皮で包んだ袋竹刀です。
 そこで気になったことがあります。柄の握りです。両手の拳がほとんどくっついているのです。どんな構えでも変わりません。
 北斎はこういう細かいスケッチは正確な画家です。またバランスから考えたら、現代の竹刀より柄が短いようです。
 これには違和感を覚えました。
 何故なら、幕末から明治にかけて残る剣士の写真には、えらく長い柄の竹刀を扱う画像が沢山残されているからです。
 これらは明らかに現代の竹刀より柄が長く見えます。したがって、両手の握りも間が大きく開きます。

 ぼくが冒頭に近衛十四郎を持ち出したのは、この幕末明治の剣道界の残像や江戸初期までの風俗絵にある野太刀のような長大な刀を腰に差す無頼漢の残像が近衛十四郎と重なり、明らかに長い刀を自在に使う者こそ強いという、単純で明快な結論が彼の侍姿に重なりリアリティがあると、ずっと考えていたからです。
 したがって、江戸期の道場稽古の竹刀は柄の長い長大なものを想像していたのです。ところが北斎のスケッチはそれを裏切っていたのです。
 これをどう考えたらいいのでしょう。
 
 ぼくは短い間ですが居合いを習ったことがあります。
 そこの流派では柄の短い刀を使い、両手で振り回すときは鍔元に両手をくっつけるように持って扱います。この形が振り回すとき一番バランスのイイ持ち方だと教えられます。
 そうです。北斎漫画の竹刀稽古の様子とそっくりです。
 ぼくはといえばその頃は、居合いは接近戦なので長い柄はじゃまなのだろうぐらいにしか考えていました。
 ところが問題はそう単純ではなく、居合いの祖である林崎甚助は短躯ながら三尺をゆうに越える化け物じみた豪刀を振り回していたことが知られています。勿論、柄はそれにに比例して長くなります。
 また、北斎が写しとった袋竹刀は現代の竹刀より短く、江戸期に決められた定寸の刀の長さにそくして作られていますから、スケッチの持ち手の形は定寸の本身を使ったときと近いと考えられます。

 しかしながら、幕末の彰義隊の戦いを写生した月岡芳年の錦絵を見ると、厚みと幅のある刀身に十分な長さの柄をもつ刀が精緻に描かれています。
 柄をつぶさに見ていくと、目釘が2つ以上の刀が頻繁に出てきます。
 実戦が多発したこの時代、刀は定寸のまま刀身はひたすら肉厚になり、造りも頑丈になったことが伺えます。
 そして、両の持ち手の開きは拳一つほどです。

 よくドラマで「おぬし、できるな」とか「一刀流とみた」いうせりふがありますが、あれは繰り出す技や構えもありましょうが、先ずは刀の長さや形・拵えでおおよその持ち主の腕や流派がわかり、シャーロック・ホームズなみの洞察力のある者は、さらに髷や衣装・言葉遣いを見て氏素性をたちどころに言い当てることができたことでしょう。
 さらに身体の特徴、袖からのぞく前腕の太さや面ズレや竹刀蛸の有無などをみれば習熟度が瞭然となったに違いありません。

by arihideharu | 2017-01-31 22:21 | 挿絵 | Comments(0)
町奉行所与力・同心一覧
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 『図説・江戸町奉行所事典』という重宝する本に、文久元年町奉行所与力・同心の一覧表が載っています。
 ぼくはここしばらく、こればかり見ています。相当地味ですが、どういうわけか飽きません。

 一般的解説本には、南北の町奉行所にはそれぞれ与力25騎と同心120人がいて、それが5組に分かれて組織されていると説明されます。
 その伝でいくと一組の与力の数は5名、同心は24名となります。
 ところがこの表を見ると、南町奉行所一番組では与力7名に同心25名で、二番組では与力9名に同心36名で、かなり不揃いです。
 これは雇用を世襲にたよる結果だと考えられます。
 ただ、二番組の与力9名のうち同姓が3組いるので、これは親子と考えられ、3名は実質見習いと想像できます。
 また、2番組同心の数が異様に多いのは、幕末の動乱に備えた増員のせいと考えられます。
 ちなみに文久元年は1861年です。

 次に目につくものは、同心が四つに分かれていることです。年寄・書物・添書物・同心の四つです。
 これは与力が将校にあたるなら、年寄同心が下士官で、平同心が兵卒と考えられます。また書物・添書物はその中間の地位と考えられます。
 想像を膨らませると、年寄は曹長で、書物が軍曹、添書物が伍長かもしれません。
 また元々、与力は騎馬兵で同心は歩兵ですから、人数比から考えると、騎馬兵一人に対し歩兵4・5人の編成ということになります。

 ちなみに、小説やドラマでおなじみの廻り方同心・約14名は、すべてこの上級下士官である年寄です。
 しかも、上司(与力)を持たない特殊な部署です。となると未熟な与力など、この者たちに従うしかなっかたと想像できます。

 また、ほかの年寄同心の所属部署を表の並びで見ていくと、年番方同心6人のうち2名が年寄同心です。次の本所方の同心3人のうち2名が年寄です。
 このことから本所方は意外と重要な役目であったことが伺えます。
 意外と言えば、かなり重要と思われる裁判職の御詮議役に筆頭与力の名は載っていても、年寄同心の名がないことです。
 これは同心においては、内勤より外勤重視という町奉行所の性質からと愚考しています。

by arihideharu | 2016-11-03 09:58 | 挿絵 | Comments(0)
二人展(巡回展)が終わりました。
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『ANAGRA』で行われた、安里英晴・城井文平/二人展(巡回展)が8月19日に終了いたしました。
お盆期間でしかも暑いさなかに関わらず、様々な方がお見えになり感謝をしているところです。
今度も色々なことを勉強させていただきました。
ありがとうございます。
あらたな制作意欲が湧いてきた二人です。
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by arihideharu | 2016-08-24 15:39 | 挿絵 | Comments(0)
巡回展のお知らせ
4月に開催した展示会の巡回展が半蔵門で行われます。
下記『ANAGRA』は70年代を思わせる、若き美大系ミュージシャンが運営するギャラリーです。
前回見逃した方など、お越し下されば幸いです。

新作も追加するつもりです。またトークショーも計画しているようです。


by arihideharu | 2016-07-27 22:37 | 挿絵 | Comments(0)
忍者が背負う刀
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(前回座蒲団続き)時代考証的いい加減さなら、ぼくもちょくちょくやっています。
 例えば忍者の背負う刀の位置です。

 時代考証家の名和弓雄さんは、刀を背負う場合、柄が左肩にくるのが正しいと書いています。
 子供のころ毎日忍者ごっこをした身のぼくにしてみれば、この一文を目にしたとき、相当ショックを受けました。早速試してみたのは勿論です。まだ若かったころです。
 
 まず左肩に背負い抜いてみました。楽にあっさり抜けます。これには相当驚きました。ただ、腕が顔をジャマする欠点があります。
 次に右肩に背負い抜いてみます。これには少しこつがあります。それは左手で鞘を持ち、抜くと同時に下へ引いてやるのです。
 この方法は佐々木小次郎のような物干し竿は難しいとしても、そこそこの長さの刀ならさっと抜けます。
 この一文を書くにあたり、久しぶりにやってみました。ところが、不覚にも躰が堅くなり、腕が背中に回りません。したがって、実証できませんでした。
 
 ただ、ぼくのチャンバラごっこの経験から、刀を背おった場合、抜くことが出来ても、丹下左膳同様、納めることがなかなか出来ません。しかも動き回るに、しごくジャマです。
 床下や天井裏に潜り込むには、躰との一体感がありません。
 チャンバラ小僧の立場からいえば、白土三平のカムイ式に小太刀を帯の後ろに指すのが一番合理的だったと思います。
  
 実は、このことは名和さんも指摘しています。
 つまり忍者は刀を背中ではなく腰に指し、時に応じ差し位置を変えていたというのです。
 したがってぼくの結論では、忍者が刀を背負う姿はフィクションで、右肩でも左肩でもどちらでもイイと思っています。
by arihideharu | 2016-04-28 05:17 | 挿絵 | Comments(0)
座蒲団
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 座蒲団が普及するのは明治以降とされています。
 これについて時代考証家の林美一さんが面白いことを書いています。
 テレビ時代劇の撮影現場に林さんは珍しく呼ばれます。そこで時代考証家として、座蒲団の不都合を指摘し、撤去させます。
 ところが日をおいて、再び現場を見渡すと、座蒲団がまた敷かれています。そんなことが何度か繰り返します。
 観察した結果、撮影所のスタッフには座蒲団は敷くものだという意識が習わしのようにしみついていて、簡単に直せるものでないことを悟ります。

 また、どこで読んだのかは忘れましたが、時代劇が沢山作られていた時代、御大とかスターと呼ばれる役者が座ろうとすると、休憩時でも撮影時でもどこからともなく取り巻きが、座蒲団をさっと尻の下に差し出したというものです。
 ぼくなどは、市川右太衛門あたりの顔を浮かべ、思わず吹き出してしまう話です。

 いずれにしろ、芸能の現場では時代考証など、うっとしいものだったのに違いありません。
by arihideharu | 2016-04-23 05:18 | 挿絵 | Comments(0)
新聞連載小説『うめ婆行状記』始まりました。
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 がん闘病の末、去る11月7日に他界されました、宇江佐真理さんの遺作『うめ婆行状記』が1月12日より朝日新聞夕刊でいよいよスタートいたしました。
 
 一時は完成も危ぶまれたそうですが、お亡くなりになる二日前に病床にて渾身の力を振り絞り脱稿し、ご家族に託されたそうです。
 壮絶というしかありません。

 当初は、今年の6月からの通常連載という形を予定していたようですが、急きょ短期連載という形になりました。
 
 ご冥福を祈りつつ、一生懸命描かせていただきたいと存じます。合掌。
by arihideharu | 2016-01-13 14:20 | 挿絵 | Comments(0)
岡っ引き
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 去年の夏ごろ居間の本を整理していたら、稲垣史生の「町奉行」という古いハードカバーの本が出てきました。ぼくの仕事は見た目だけを整える仕事なので手元に置く考証本は、出来るだけカサばらなくて内容が簡潔で図がついたものが優先されます。したがって、ハードカバーの本は敬遠される傾向にあり、古いとなるとなおさらで、なかば存在を忘れていました。
 さっそく昼食時パラパラしていると、こういう記述を見つけました。
 要約すると、天保13年12月、南町奉行鳥居甲斐守、北町奉行遠山左衛門尉連名で、ときの老中水野越中守へ差し出した書き付けに、「深川の非合法の売春を営む料理茶屋の男衆に給金をあたえ、密告業務をさせている」という資料紹介です。
 これがその後気になっていて、というのも密告業務をしていた料理茶屋の男衆とは、稲垣史生の解説によると岡っ引きのことらしいからです。

 辞書では、岡っ引きは町与力や同心に私的にやとわれた犯罪捜査や逮捕時の協力者とあります。
 解説本でも役人のポケットマネーだけで成立する治安の下部組織であると説明されます。
 また、彼らの素性の多くは裏社会に通じた訳ありの連中で、それぞれの生業を持ちながら、防犯カメラのように方々いて、江戸市民のトラブルの相談にのりつつ、監視および通報を日々の役目としていたと説明されています。
 このトラブルの相談とは半分タカリで、彼らの少なくない収入源です。まぁー、どこをとっても嫌われる要素ばかりの彼らです。

 この書き付けの意味するところは、享保の改革以来、弊害が多いと岡っ引きを毛嫌いし公式には認めていなかった幕府も江戸も末になると、給金を払っていた訳ですから有用性を公式に認めていたということでしょう。
 もちろん、同じような資料がほかに存在しないなら、悪名高い天保期だけの特殊性とも考えられます。
 
 ただ、ご維新になって東京の警察組織が、町奉行所の人材をそっくり頂戴し、与力同心はもちろん岡っ引きまでも多少なりとも組み込まれたのをみると、やはり幕末には岡っ引きが町奉行所で相応の処遇をされていたと考えていいと思わざるえません。
 また、末端の同心が警察に組み込まれ、かつての岡っ引きと階級が同等になり、おおいに面目を失ったいうエピソードをどこかで読んだ記憶もあります。
 実はここしばらくこのエピソード、はてどこに書いてあったものかと探しているのですが、見つからず、どこかでひょっこり見つかるのを期待しているところです。
by arihideharu | 2014-02-04 01:49 | 挿絵 | Comments(0)
家紋
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 江戸の切絵図を初めて見たとき驚いたことがあります。武家地に松平姓が実に多いことです。江戸市中に目につくものの代表を「伊勢屋稲荷に犬の糞」といい習わしたようですが、武家地の松平さんもそれに近いものがあります。
 薩摩の島津家も仙台の伊達家も切絵図を見ると「松平薩摩守」と「松平陸奥守」です。
 調べるとほとんどの有力大名は徳川より賜姓されたされた「松平」を看板にかかげていたのが分かります。また旗本衆も徳川のご時勢ですから、一門ゆかりの松平姓が幅をきかせることは当然の成り行きです。
 大げさにいえば、松の廊下で「松平どの」と声をかけたら、だれもがいっせいに振り返る勢いです。
 
 そこで、もう一度切絵図をみると、大名家の上屋敷には必ず名前と一緒に家紋がならんでいるのに気がつきます。この家紋から江戸人は文字を読むように情報を得て、この屋敷がどこの殿様のものか理解したのでしょう。
 
 家紋はこの時代、紋付きの衣装に限らず家具調度、建物といたるところについていました。
 例えば、初めてのお使いで薬屋の小僧さんが歯痛薬を勤番侍が住む大名家の長屋へ届けるとします。途中はたと前後左右、大名屋敷の大きな塀に囲まれ道に迷ったことに気づきます。
 そこでおそらく勘のイイ小僧さんなら、塀の瓦で家紋を確かめ、屋敷の大きさを目測し石高を推量し、目指す大名家に当りをつけたと思われます。
 というのも、商家の丁稚などは字を覚えるより先に、屋号の入った絵看板や家紋を覚えたと想像できるからです。
by arihideharu | 2013-11-19 15:48 | 挿絵 | Comments(0)