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わくわく挿絵帖
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カテゴリ:挿絵( 39 )
同心の家
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 江戸町奉行所の定廻り同心ともなると、パトロールに連れていく2・3人の小者以外にも屋敷に同数ほどの小者が下働きの合間に捕縛術の稽古をしながら、住み込んでいたといいます。彼らは捕り物時は、六尺棒や刺す股をもち捕り方の要員となり、日頃はケータイのない時代ですから伝令として重宝されたと想像できます。
 さらに、同心の屋敷の勝手の土間には常時酒樽がおかれ、ふるまわれたとありますから、八丁堀の旦那衆の華やかさがうかがえます。おそらく、やり手の廻り方同心の屋敷にはひっきりなしに、相談客や手先が出入りし、半ば役所の出張所のようなありようだったと考えられます。
 そして主の留守の間、それを仕切っていたのは「ご新さん」「ご新造さま」と呼ばれた同心の妻女です。
 となると、八丁堀の旦那衆の家は公私の区別もなく武家の住居というより商家のありようで、家業として市政の一翼担っていたと考えられ、他の旗本御家人衆とはだいぶ違っていたのでしょう。
 ようは八丁堀は特殊技能を備えた村のようなもので、旦那も妻女も八丁堀育ちでなければ務まらない仕組みになっていたと考えられます。
 その結果、江戸期270年の間、南北合わせ与力50騎に同心約120人の家は濃淡はあっても総て姻戚関係にあったといわれ、今となっては想像しにくい社会生活です。
 したがって、八丁堀の役人の家は、妻帯は絶対条件で、また跡継ぎがいないことは最大の憂いであったことが改めて分かります。 
 またこの絶対条件をクリアしても、どこの家も代々能吏を供給するはずもなく、明治になってから、もと町与力からの聞き書きによると、与力50人のうち役にたつ者は半分ほどで、あとは誰でもつとまる役で一生終えたとありますから、同心の家でも同様だったと考えられます。
 太平の世とはいえ、幕府組織のうち江戸町奉行所はもっとも実用でなければならぬ役所ですから、重要なお役には俊英かつ人望のあったものが就いて、あとは適当にやっていたというイメージだと思います。
by arihideharu | 2013-07-30 00:05 | 挿絵 | Comments(0)
奉行所つき中間
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 武家の奉公人に中間(ちゅうげん)という身分があります。江戸では一般に折助(おりすけ)と呼ばれ、たいそう虎の威を借り嫌われたもののようで、古い映画を観ていると、この言葉を耳にしますが、近年あまり聞かない時代劇用語です。
 歴とした侍は外出となれば露払いの家来と、小荷物持ちに中間ぐらいは連れていたようで、それが出来ない軽輩とて中間小者のひとりぐらいは同行し、それは婦女子も同様で、運悪く奉公人が出払ったおりは隣家から小女でも借りて外出したと考えられます。

 ところが、町奉行所の同心が連れている中間は奉行所つきと書かれている資料が一般的で、それは三田村鴛魚の「定廻りの同心などは中間を共に連れておりますが、それは町奉行所の中間でありまして…」が出典と思われます。
 ここで大きな疑問が生まれます。ここだけ読むと、奉行所の同心に同行する中間は奉行所にやとわれ、同心との主従関係はないように読めるからです。現に給金は奉行所から出ています。これは時代考証本を拾い読みしているぼくにとって長年謎のひとつです。
 何故なら、同心につく中間の仕事は、朝の出仕から御用箱とよぶツヅラをかつぐとこから始まる、一般的中間とかわらない職務なのに、給金は奉行所からもらうという、江戸町奉行所の変則性をどう解釈していいか分からないからです。
 もし、中間が同心に属すなら中間は同心の屋敷で寝泊まりするでしょうし、奉行所に属すなら奉行所に寝泊まりすると考えられるからです。
 
 中間はそもそも侍と小者の中間(ちゅうかん)に位置する身分なので中間(ちゅうげん)と呼ばれる訳ですから、同心の周りに手下としてゾロゾロいる小者より身分が上と考えられます。しかし、一般的中間は地行地の百姓や口入屋から雇った者がなり、折助以外にも小者・下男・下僕ともよばれ、下働きをしてながら公用のときだけ紺看板のユニホームを着て小荷物や鋏箱をもって出かける存在なので、町方の同心の家にいる小者が時折中間の役をしてもおかしくなくありません。
 しかもこの中間たちは薄給を補うように、「うちの旦那は来てないか」と主の名前を出し、小金を持つ店にあたりをつけ、小遣いをねだって廻ったので、「八丁堀の折助」は嫌われ者のだったと等しく書かれていますから、これだけ読んだら中間は同心の奉公人そのものです。
 
 そこで近年の小説で中間が登場する情景を思い浮かべてみます。
 その1。勤務を終えた同心は、居酒屋の灯りが点いた頃、中間を奉行所に返し、小者には何か用を言いつけ、ひとりで渋皮のむけた女主のいる居酒屋で、一杯ひっかけて家路につきます。あたりはとっぷり暗くなっています。そのとき、物陰から刺客が襲います。
 その2。先代から住み込んで奉公する老爺が、少し曲がった腰で御用箱をかつぎ、短気なところがある若い主を時折諫めながら中間奉公をする情景です。
 奉行所つき中間。時代考証本を読む限り、謎が深まります。

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by arihideharu | 2013-04-26 14:51 | 挿絵 | Comments(0)
自身番(死体をおく場所・考)
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 時代劇には自身番がよく出てきますが、それは殺人事件が物語の中心にあるからで、むっつり顔の町方同心や早合点の岡っ引きが、たびたび押っ取り刀でかけつけ、戸板に乗せられた死体の検視をする場所として登場します。その場合、死体は自身番内の土間におかれ、同心はおもむろに被せてある筵を上げ、死体を改めます。多くの捕物帖はここから始まります。

 京都の東映撮影所にある、自身番のセットを見ると、なるほど死体をおくに十分な広い土間があります。さらに、その中心に麻雀卓のような立派な置き囲炉裏があるのが目を引きます。何度もテレビで見た覚えがあるものです。また、出入り口の腰高障子が三方向にあるのは実用からしたら過剰のようですが、撮影の利便性からと想像できます。これらは映画やテレビ時代劇の文法に属する話しです。

 多分、現代の作家が捕物帖を書こうと思いたち資料にあたると、そのほとんどの自身番の資料は笠間良彦さんが作画した、間口九尺奥行二間の自身番に出会うはずです。これは天保のころの絵師が描いた風俗研究誌「守貞謾稿」を写したものです。この三畳二間ほどの切妻の小屋の間取りを見ると、驚くことになります。何故なら、土間はありませんし、おまけに囲炉裏を切るのをお上はご法度にしていたとあるからす。

 おそらく、ここで多くの小説家は考え込むはずです。つまり、死体をおく場所がないからです。間取りから想像すると、軒下しかありません。といっても、入り口の軒下におくとしたら、出入りにじゃまで死体をまたぐしかありませんし、裏の軒下だといかにも不用心です。すると町木戸の脇に筵を被せて木戸番あたりを立たせて安置するしかありません。しかしストーリーの都合上、人目をはばかるようだと、自身番の中におくしかなく、その場合は物理的に奥にある板の間におくしかありません。ここは怪しい者を取り調べたり、泊めておくために用意されたスペースです。
 
 以上は見取り図からの想像ですが、実はぼくが読んだ近年の時代小説の範囲では自身番の入り口以外は、全部死体の置き場所として登場します。しかし、なんといっても一番多いのは自身番の土間におくという設定です。となると、今までの考察から、この設定は怪しいことになりなす。ところがどっこい、そうはなりません。何故なら、九尺二間の自身番はお上の推奨する大きさで、実際は二間×三間、六畳二間ほどのサイズが普通らしく、囲炉裏を切っているのも多く、度重なるお触れに関わらず、自身番の規模は法定を守ることは希だったようなのです。
  
 実際、三田村鳶魚の著作をみると、二間×三間ほどの自身番に一畳ちょっとの土間がついた間取りが紹介されています。これだと、死体を戸板ごと運び込むのは無理としても、障子戸を外し筵にまるめて、ゴロリと放り込むことが可能です。

 これで、捕物帖の語りの流れはとどこおることなく進みます。しかし、自身番の土間はくれぐれも猫の額ほどだということをお忘れなきように。
 
 とはいうものの、冷蔵庫のない時代、腐臭はたえがたいでしょうから、早々に早桶に入れて近くの寺にでもあずけ、首実検はそこですますのが無難というもの。勿論、ぼくの想像です。

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by arihideharu | 2012-12-14 17:19 | 挿絵 | Comments(0)
絵ぐみ
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 挿絵を描くにあたり「絵ぐみ」という作業方法があります。それは小説の方が締め切り間近に関わらず、脱稿のメドがたたず、小説に先立って挿絵を入稿する、絵を組んでしまうことをいいます。その場合は小説家の方から編集者をとおし、ファクスやメールで絵柄の指示が入ります。

 例えば、「チャンバラ。侍が刀を構えているところ」という具合です。

 実はここで困った問題があります。絵ぐみの場合、この段階においても小説家の頭の中に書くべきストーリーが見えていないことが多々あるからです。つまり具体的な絵のイメージがないまま絵の指示をしている可能性があるのです。

 この場合だと、侍がどんな侍か明記されていません。
ということは、小説家は苦しまぎれに「絵ぐみ」を指示をした可能性あります。

 いずれにしろ、挿絵画家としては踏み込んで描くことはできませんから、絵を描くというより、かなりアバウトな「図を描く」という作業になります。ぼくにとってはかなり窮屈な作業です。しかも、仕上がった小説には、チャンバラもなければ刀を抜く場面さえ出てこない事態も時々起きます。小説家はこの時点で相当追い込まれ、「絵ぐみ」のアイディアどころではなかったと思われます。

 この「絵ぐみ」、小説家の中には上手い指示を出す方もいます。

 20年ほど前、ぼくがまだ現代小説の挿絵を描いていたころです。推理小説家、佐野洋さんの挿絵を描くことがありました。佐野さんは遅筆で有名な短編の名手です。したがって、いつも「絵ぐみ」でした。

 締め切り間際になって、ファックスが入ります。例えばこんな短文です。

 「男女がコーヒーを飲んでいるところ」

 これだけなら、普通の「絵ぐみ」です。ぼくは、男女の年格好も不明ですから、差し障りのない図を描くしかありません。佐野さんが他の作家とちょっと違うのは、そこにもう一言、暗号のような言葉が入ります。例えば……。

 「キーワードはうそ」といった具合です。

 これで俄然、絵は動き出します。ぼくは図ではなく絵のアイディアがうかびます。

 この佐野さんのエピソードを思い出したのは、彼の「絵ぐみ」の指示書は今思えば、前回テーマにした俳句の趣あったなと思ったからです。

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by arihideharu | 2012-05-11 11:30 | 挿絵 | Comments(0)
着流しに二本差し
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 ぼくは当然のことながら刀を差して町を歩いたことはありませんが、着流しに二本差しで町歩きをしたらどうなるかと、時々考えることがあります。というのは袴を着けての二本差しなら、帯と何重にも巻かれた紐でかなりしっかり刀をおさえることが出来ますが、帯だけで着る着流し姿では刀をおさえておく力が弱いと思うからです。よほど気をつけていないと着物は着崩れ刀はずり落ち、みっともないことになりそうです。
 
 予防策として常に刀の柄(つか)を手や腕で押さえておく必要がありそうなのは容易に想像がつきます。あと考えられるのは、出来るだけ細くて軽い刀を二本差すか、お医者や渡世人のように一本差しにすることです。

 文化文政期の江戸文化花盛りのころの勝川派の役者絵を見ると、着流しを裾長にぞろりと着て細身の長い刀を差した侍の姿が描かれています。これが当時の美意識だったのでしょう。

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by arihideharu | 2012-02-29 23:33 | 挿絵 | Comments(0)
写生
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 人によっては一、二歳から自分の記憶が鮮明な方もいるようですが、ぼくはボーと育ったらしく、幼児時代の記憶はそれはどなく、小学校の二、三年になってからやっと過去の自分の姿が浮かび上がってきます。

 その頃ぼくは三つ上の兄と日曜日に絵を習いに行っていました。教えていたのは通っていた小学校の担任の先生でした。そして習った場所はその先生の自宅で、といっても立派な家があったわけではなく、歩いて十分ほどの酒屋の二階の一室で奥さんと赤ちゃんとで間借りをしていました。行くとまだ朝食が終わってないときもあり、いつも大わらわで片付けて、さっきまでご飯を食べていた卓袱台の上に急拵えのモチーフを置いて、クレヨンや水彩で写生をしました。

 この先生の教えは一貫しており、この一室でも学校の教室でも、とにかく写生をすることがすべての基本ということでした。ですから図工の時間は天気がいいと大概は外へ画板を持って出かけました。

 先生が写生にこだわったのには訳があります。それは戦前の美術教育が、与えられた手本を忠実に写す事だけに終始し優劣を決めていたことへの強烈な批判があったためです。おそらく自分の創意とか工夫が否定された思いがあったのでしょう。

 ぼくは四年生まで担任をして戴きました。その間、授業中の無駄話は戦争中の話しが多かったと思います。彼は終戦まで海軍で飛行機乗りの訓練をしていたらしく、角兵衛獅子の小僧のようなきつい目にあったことや常に死ぬことを意識しながら生きていたことを事細かく話していました。といってもその当時の理解力では十分の一も分かっていなかったと思うのですが、彼の無念さだけは伝わりました。

 時には教室で人物画も沢山描きました。そのとき注意されたことがあります。「マンガのマネはするな!」です。言うまでもなく戦前の「のらくろ」から日本人の子供文化には漫画がありました。また彼自身も昼休みには生徒が持ってきた漫画雑誌を借りて眉間にシワを寄せて読んでいる男でしたが、写生に漫画のタッチが混じることだけは嫌いました。

 写生とは自然をありのままに自分の目と躰を通し描くことですから当然の教えでした。
 
 やがて高校生になって油絵を始め、青木繁や岸田劉生あるいは関根正二や村山槐多の写生を知り、彼の言っていた意味が分かるような気がしました。それは人の命が短かった時代、「生」を「写す」とは生きる喜びそのものだったということです。

 ただ大学に入り周りの友達の誰もが鉄腕アトムやミッキーマウスなど、そらで上手に描ける漫画キャラクターを幾つも持っているのに、ぼくは満足に描ける物が何にも持っていないことに自分でも驚いたことがあります。これはこの先生の教えの功罪だと思っています。しかし彼はぼくのまぎれない恩師です。

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by arihideharu | 2011-12-02 21:26 | 挿絵 | Comments(0)
「あー、どちらもリアリズムだ」
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 3.11の直後ぼくの住む小平市も計画停電で、灯りが消えた夜がありました。外に出た妻が「来て、来て」と興奮の様子で、ぼくを呼びました。出てみると、彼女が意味するものがすぐ分かりました。息をのむような星空の美しさと静寂の闇の中にある家並みの対比はまさに聖夜の様です。

 こんな夜空を見るのは久しぶりでした。東京では勿論のこと郷里の秋田を出てから初めてかもしれないと思いました。

 静寂と闇は古い記憶を呼び覚まします。東京でも冬の夜空はきれいですが、それが四十年前の田舎の冬となるとなおさらです。

 ぼくの通った高校は、実家がある秋田県横手市の市街地から三キロほど離れた小高い丘の上にあります。途中には古代史に出てくる清原氏の居城跡があり、また近くには後三年の役の古戦場跡があります。

 学校には夏は自転車で通いますが、冬は歩いて通うことが多くなります。降雪でバスの運行が当てにならないからです。また部活(美術部)をして帰宅すると、昼の短い北国ですから夜になるのは当たり前で、深夜におよんだことも何度かありました、そういう時は当然帰りは徒歩になります。

 そんな帰りが深夜におよんだある冬の日です。なだらかな下り坂の国道が帰り道です。学校が建つ小さな森を出ると両側が急に視界が開け銀世界となった広い農地に出ます。その晩は晴れ渡った月夜でした。それも鮮やかな満月です。月明かりの雪景色ほどきれいなものはありません。しかし、これほど鮮やかで輝いた夜の雪景色を見るのは初めてでした。深夜で人の気配が全くないせいだと思いました。満月の空と青白く発光した雪野原は夜とは思えぬ異様な明るさです。キャッチボールは勿論のこと本も読めそうです。所々に林や点在する木々があり、その中の一本に大きく広げた枯れ枝にたくさんのカラスが止まっているのを見つけました。決して近い距離ではありません。ケヤキでしょうか葉を落としたりっぱ木の枝に数十羽、カラスは就寝中のご様子です。奇観です。何かで見た風景のようでもあります。スリラー映画…、あるいはブリューゲルの絵にあったかもしれないと思いました。

 ぼくの目はズームレンズのように、カラスにフォーカスし拡大していきます。カラスの大きなクチバシとざっくりとした重そうな羽が見えるようです。解像度の高い月夜にしか生まれない幻想です。しばらく立ち止まって眺めました。しかしどちらも違う気がします。つまり、スリラー映画でもブリューゲルでもないのです。昼間とは違う色を抑えたモノトーンの世界です。重厚さと軽やかさが混在しています。ぼくは歩を進めました。

 しばらく続いた平地が上り坂に差し掛かります。この先は清原氏の居城跡がある鳳(おおとり)山です。左手に見事な枝ぶりの松の木が一本立っています。ぼくはその下に立ち対峙しました。その松が月明かりと雪明かりで浮かび上がって見えたからです。

 「おーっ!雪松図だ」と思わず声が出ました。

 その当時買ったばかりの画集で見た、円山応挙の「雪松図」に余りにそっくりに見えたのです。雪を積もらせ重そうに枝を拡げたサマはまさにそれでした。

 ぼくが買った画集は江戸美術を集めたものでした。めくっていて一番興味を持ったのは、応挙の丸山派でした。それまでの日本の絵画にはない新しいリアリズムを備えた一派です。いち早く写生を取入れたのが特徴です。

 また、江戸美術にはそれとは正反対の方法論をとった一派があります。文人画と呼ばれる、ヘタウマ式作画でこの世にないものを多く描きました。池大雅や与謝蕪村などです。

 当時のぼくには丸山派はプロの絵で、文人画はアマチュアの絵という印象でした。

 話しを「雪松図」に戻します。とにかく、その時見た月明かりを浴びた雪の中の松が異様に美しく、またそれが画集で見たばかりの応挙の屏風絵そのものに見えたのが衝撃だったのです。

 そして衝撃が醒めやらぬうちに、また歩き出したぼくはハタと気がつきました。さっきズームアップして見たカラスは、スリーラー映画やブリューゲルの絵でもなく与謝蕪村が描くところの「鴉図」だったことに…。「鴉図」もまた、同じ画集に載っていました。

 「あー、どちらもリアリズムだ」と思いました。

 円山応挙の「雪松図屏風」も与謝蕪村の「鴉図」もアプローチの仕方が違いますが、どちらも自然を見事に写し撮っていたのです。

 ぼくは四十年前、月明かりの雪道で、ふたつも衝撃的場面に遭遇したのでした。

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by arihideharu | 2011-11-14 22:18 | 挿絵 | Comments(0)
習作
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 学生の頃、ぼくは油絵を専攻していましたが、日本画を描く課題が出ました。そこで、ぼくは大河内伝次郎の「忠治日記」のスチール写真をもとに、国定忠治の大首絵をA1のパネルに仕上げて提出しました。それからしばらくぼくは、残った顔料で浮世絵風の習作を試みました。

 そんなある日、女物の着物を単色で塗り終わったあと、それだけでは寂しいので柄(がら)を入れようと考えました。ところが一向に思いつかないし、丁度いい資料もありません。そんな逡巡をしていたとき、学校の友達が遊びにきました。

「何してるんだ?」と訊きます。

 ぼくは「どんな模様を入れるか考えているんだ」と描きかけの絵を示しながら答えました。すると彼「絵描きが模様を考えるようになったらお仕舞だな」と言います。

 ぼくはカッとなりました。

 危うく喧嘩になりそうでしたが、思い留まりました。というのは、ぼくもこの習作を始めるまでそう思っていたからです。

 近代美術が様式美を否定するところから始まるとしたなら、模様は様式美そのものです。また装飾性は近代が嫌うところでもあります。彼の言う意味は理解出来ます。

 ぼくの浮世絵版画風の習作は一年以上は続いていましたから、友人達はぼくがこの手の絵を描いていることは知っていました。

 ところが、最初は面白がってくれていた彼等も、この一連の習作が長くなるに従い、首を傾げ始めていました。というのも、段々上手くなるどころか、イメージ性においても技術においても行き詰り始めていたからです。

 「絵描きが模様を考えるようになったらお仕舞だな」と言われたとき、もしぼくがもっと和の世界に確信を持って入り込んでいたなら、ここは喧嘩をするべきところです。何故なら模様は日本美術の重要な要素ですから…。ところがぼくは志向していながら、まだ腰が定まっていませんでした。

 そのとき手本にしたのは主に月岡芳年でした。芳年は幕末の様式化してきた錦絵の中で、実際にモデルを置いて絵作りした跡のある、近代との架け橋になる洋画風のデッサンをする画家です。そのころ夢中になっていた画家です。そんな理由もあって、錦絵のしっぽを掴むなら芳年からと思ったのですが、これが間違いのもとでした。初心者には彼の線は難解過ぎたのです。それもそのはずで錦絵が出来たその百年前の鈴木春信の時代より、彼の引く線は何倍も複雑になっていたのです。実際に着物姿を見ることのない現代人にとってなおさらです。真似るなら春信あたりから始めるべきだったのです。

 ぼくは浮世絵風の絵をそれから一年ぐらい続けましたが諦めました。方向性が見えなくなったのです。

 再開したのは十五年ほどしてからでした。それは糊口を凌ぐためと少しは資料が集まったからです。覚悟を決める条件が揃ったというわけです。

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by arihideharu | 2011-10-17 04:24 | 挿絵 | Comments(0)
江戸の「粋」
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 先日、露天売りが並ぶ深川不動の参道を歩いていたら、藍染の小物を売っているオジさんに声を掛けられました。そのオジさん、ぼくが手にぶら下げていたデジカメが気になったらしく、「そんなもん裸でブラブラさせちゃ駄目だよ。貸してごらん!」と有無も言わさずぼくからカメラをもぎとり、商品の小袋へ入れてみせました。

 それは江戸の町火消しの印半纏を柄にした藍染の巾着袋です。「どうでぇー。粋なもんだろー」と江戸風にセールストークを畳み込み、ぼくの目の前にカメラを収めた小袋を差し出します。  
 
 ところがぼくが買わないと分かると、舌打ちしながら「イイもんなのになー」と言い、カメラを袋から取り出し淋しそうに視線を外しました。

 無粋な客となってその場を離れたぼくは、オジさんが何度も「イキだろ!イキだろ!」と繰り返した声が耳の奥に残っていることに気がつきました。

 おそらく近頃活字でしか見ない「粋」と言う言葉を、生で何度も聞いたせいと思われます。と同時に江戸の「粋」についてずっと引っ掛かっていたことが頭の隅にあるのに気がつきました。

 引っ掛かっていたこととはこういうことです。

 長い間ぼくが手本としたり、鑑賞の対象としてきた江戸の絵師は、北斎・広重・写楽・芳年などです。彼等は国際的評価も高い、いわば普遍性を獲得した芸術家たちです。ということは現代人にとって極めて分かりやすい存在です。

 一方、当時の江戸には圧倒的需要と勢力を誇った豊国一門(歌川派)がいました。その勢力ゆえに江戸の「粋」の核心と思われる一派です。ところがこの連中、分かりにくいのです。引っ掛かっていたこととはこのことです。江戸の「粋」イコール豊国一門イコール謎。これが頭に浮かびました。
  
 江戸の「粋」というのは風俗に属しますから、時代と地域が限定されます。したがって、時代を経ると理解不能な面が出てくるのは仕方がありません。北斎・広重の中にもあります。ただ豊国一門の場合、売れ過ぎて江戸の「粋」を抱え込み過ぎた思います。過剰適応。ガラパゴス化です。

 研究するには面白いテーマだと思います。しかし、単純に美術鑑賞するには不向きです。多少の知識が必要となるからです。

 江戸の「粋」、ちょっと面倒臭いぞということです。どうやら、ずっと頭に引っ掛かっていたこととは、長年の宿題を早く片付けろということになるようです。

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by arihideharu | 2011-09-10 06:10 | 挿絵 | Comments(0)
「ひまわり」
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 確信は持てませんが、映画監督の伊藤大輔のエピソードだったと思います。

 若い時分、縁日の夜をそぞろ歩いていると、アセチレン灯の下で変わった絵が目に飛び込んできます。粗末な紙に印刷された、ゴッホの「ひまわり」でした。初めて見るその絵は、美術に並々ならぬ関心があった伊藤青年を釘付けにします。彼は貴重なお金をはたいて、その絵をもとめました。

 そして自分の部屋にその「ひまわり」を貼り、眺め暮らしました彼は、これをきっかけにすっかりゴッホファンになります。

 その後、美術愛好家の伊藤大輔は、映画監督として数々の名作を作り一時代を築きます。しかし、多くの名作が戦災などで残っていないことでも有名で、彼の作品と彼自身は日本映画界の伝説となりました。

 戦後、日本が経済復興したころ、ゴッホの展覧会が開催されます。彼は見に行きました。あの「ひまわり」が目玉作品の一つとして来ていました。

 彼は行列の中で「ひまわり」を鑑賞しました。ところが彼は小首をひとつ傾げます。確かにこの「ひまわり」はすばらしい作品には違いないが、もう一つ感動が足りません。彼には貧しい部屋に貼って鑑賞した粗悪な印刷の「ひまわり」の方がはるかに輝いた本物のゴッホの「ひまわり」に思えたからです。

 このエピソードは「美」の本質を表しています。ゴッホの美は伊藤大輔にはアセチレン灯の下で見つけた紙に複製された「ひまわり」に現れたのです。つまり「美」の本質は「もの」にあるのではなく「こと」にあるのです。

 学生時代です。映画本でこのエピソードをしこんだばかりだったと思います。友達のアパートで4・5人で飲んでいたときこれを披露しました。

 すると、その中の一人がすぐに「その男はゴッホを理解していない。実物のゴッホの絵の方が美しいに決まっているではないか!」と言い出しました。彼の主張は、生の油絵の発色やボリュームまたはマチエールを見ずに語るのは絵画を分かっていない。そもそも印刷された「ひまわり」と実物の「ひまわり」を比べることさえナンセンスだと言うのです。そして、伊藤某は美術を語る審美眼のない輩であると言うのです。お察しのように彼は画学生であり熱烈なゴッホファンでした。

 彼とぼくは互い頑固者で主張は平行線となり、つかみ合いの喧嘩になりそうな険悪な飲み会になってしまいました。

 久々にこのことを思い出したのは訳があります。テレビで小林秀雄の評伝を偶然見たからです。

 その中で、小林秀雄が「ゴッホの手紙」をものにしたとき、彼は実物のゴッホに触れたことはほとんどなく、程度の良い複製画を鑑賞しながら執筆したこと。そして数年後、アムステルダムのゴッホ美術館で初めてオリジナルを見たとき、咄嗟に「複製のほうが良い」と思ったことが語られていたからです。

 彼もまた複製画を見ながら耽溺し。そして、同じように実物を見て小首を傾げたのでした。

 やはり「美」とは幻の別名かと思えるのです。

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by arihideharu | 2011-08-15 02:33 | 挿絵 | Comments(0)