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わくわく挿絵帖
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カテゴリ:挿絵( 40 )
「ひまわり」
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 確信は持てませんが、映画監督の伊藤大輔のエピソードだったと思います。

 若い時分、縁日の夜をそぞろ歩いていると、アセチレン灯の下で変わった絵が目に飛び込んできます。粗末な紙に印刷された、ゴッホの「ひまわり」でした。初めて見るその絵は、美術に並々ならぬ関心があった伊藤青年を釘付けにします。彼は貴重なお金をはたいて、その絵をもとめました。

 そして自分の部屋にその「ひまわり」を貼り、眺め暮らしました彼は、これをきっかけにすっかりゴッホファンになります。

 その後、美術愛好家の伊藤大輔は、映画監督として数々の名作を作り一時代を築きます。しかし、多くの名作が戦災などで残っていないことでも有名で、彼の作品と彼自身は日本映画界の伝説となりました。

 戦後、日本が経済復興したころ、ゴッホの展覧会が開催されます。彼は見に行きました。あの「ひまわり」が目玉作品の一つとして来ていました。

 彼は行列の中で「ひまわり」を鑑賞しました。ところが彼は小首をひとつ傾げます。確かにこの「ひまわり」はすばらしい作品には違いないが、もう一つ感動が足りません。彼には貧しい部屋に貼って鑑賞した粗悪な印刷の「ひまわり」の方がはるかに輝いた本物のゴッホの「ひまわり」に思えたからです。

 このエピソードは「美」の本質を表しています。ゴッホの美は伊藤大輔にはアセチレン灯の下で見つけた紙に複製された「ひまわり」に現れたのです。つまり「美」の本質は「もの」にあるのではなく「こと」にあるのです。

 学生時代です。映画本でこのエピソードをしこんだばかりだったと思います。友達のアパートで4・5人で飲んでいたときこれを披露しました。

 すると、その中の一人がすぐに「その男はゴッホを理解していない。実物のゴッホの絵の方が美しいに決まっているではないか!」と言い出しました。彼の主張は、生の油絵の発色やボリュームまたはマチエールを見ずに語るのは絵画を分かっていない。そもそも印刷された「ひまわり」と実物の「ひまわり」を比べることさえナンセンスだと言うのです。そして、伊藤某は美術を語る審美眼のない輩であると言うのです。お察しのように彼は画学生であり熱烈なゴッホファンでした。

 彼とぼくは互い頑固者で主張は平行線となり、つかみ合いの喧嘩になりそうな険悪な飲み会になってしまいました。

 久々にこのことを思い出したのは訳があります。テレビで小林秀雄の評伝を偶然見たからです。

 その中で、小林秀雄が「ゴッホの手紙」をものにしたとき、彼は実物のゴッホに触れたことはほとんどなく、程度の良い複製画を鑑賞しながら執筆したこと。そして数年後、アムステルダムのゴッホ美術館で初めてオリジナルを見たとき、咄嗟に「複製のほうが良い」と思ったことが語られていたからです。

 彼もまた複製画を見ながら耽溺し。そして、同じように実物を見て小首を傾げたのでした。

 やはり「美」とは幻の別名かと思えるのです。

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by arihideharu | 2011-08-15 02:33 | 挿絵 | Comments(0)
少女漫画
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  かつて漫画の中心が貸本屋にあったとき、足元から天井までぎっしり置かれていた本は、ぼくの中で2種類に分かれていたと前に書きました。すなわち手塚治虫と白土三平のグループです。前者は現代と未来に題材をとり、後者は過去にそれを求めました。実はもう一つジャンルがありました。

 それは少女漫画です。

 これはぼくが一冊も手を付けたことのない分野です。

 巷間、少女漫画は手塚治虫の「リボンの騎士」から始まると云われています。それはかなり正確と思われます。というのはぼくは「リボンの騎士」でさえ途中で読むのを放棄したからです。

 少年時代のぼくにとって、自分と置き換えることの出来ない物語は手に取るに値しなかったのです。そして何より少女漫画の描き手は少年漫画の描き手より、絵が下手に見えたのが致命的でした。
 
 その後、少女漫画は大いなる進化をとげます。さらに睫毛は伸び、瞳は益々輝きを増し、そして手足の長いあの奇妙なプロポーションを手に入れます。

 もっとも、この人体表現の奇妙さは黎明期から少女漫画はもっていました。それはデッサン力の甘さが大きく関わっていたとぼくは考えています。

 そして、このデッサン力の甘さはその後の少年漫画にも言えることでした。圧倒的トレーニングのあとが見えるアメリカンコミックと違うところです。

 ただ、これらの少女漫画の特徴が記号化され量産化される過程で、近年のアニメでは少年漫画の世界観と融合し、不思議なSF世界を産み出したのは、ぼくにとってはかなりの想定外でした。
 
 何故なら、竹久夢二や中原淳一が描いた睫毛が長く、大きな瞳を持った大正・昭和のメランコリックな美少女たちが、剣を持った半裸の女戦士に進化したのですから。

 いや待てよ!「リボンの騎士」とどこが違うんだ!

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by arihideharu | 2011-08-03 20:25 | 挿絵 | Comments(0)
モダンでハイカラ
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 昭和初期、挿絵界のエース岩田専太郎は竹中英太郎が登場したとき、かなりドキリとしたということを何かに書いていました。

 岩田は江戸の町絵師の流れを汲みながら黒々とした線だけでアールヌーボーを思わせるモダンな挿絵スタイルを確立し、十代から脚光を浴びていた天才絵師です。それに対し竹中の絵は鉛筆やコンテをこすったようなボカしや、うす墨を多用し、ともすれば汚くも、また稚拙にも見える絵でした。江戸川乱歩・夢野久作などの挿絵を多数手掛けた奇才です。

 明治以降、挿絵は江戸の浮世絵師がそのまま木版技術を使ったところから始まり、やがて写真製版に移行します。写真製版は初期段階にありましたから微妙なトーンは出ません。

 そこで画家がとる最良の方法は黒一色だけで描くことです。小村雪岱はじめ多くの画家がこの方法をとりました。かれらは町絵師の子孫でしたから墨刷りの要領で難しいことではありませんでした。

 そしてその方法論はやがて大正・昭和になり、進化の枝は分かれペン画となって花開きます。高畠華宵・伊藤彦造・椛島勝一などです。

 話しを岩田専太郎と竹中英太郎に戻します。岩田は絵を描くにあたり、ポスターカラーをたっぷり筆につけ、可能な限り太い線を引き、ときには二度筆三度筆をして、メリハリある絵を描くことを心掛けたと書いています。勿論、これは未発達な印刷技術を頭に置いた、仕上がりを想定した描き方でした。

 ところが、そこへ自分の方法論を無視した竹中英太郎が現れます。これは十分にショックだったことは頷けます。しかも土俵は同じ文芸雑誌「新青年」です。

 「新青年」は探偵小説を中心に内外の作品を掲載し、その当時のモダニズムを象徴したハイカラの極みのような雑誌でした。

 そこで新しい小説の書き手は勿論のこと、新しい挿絵の描き手が求められました。時代は岩田専太郎を産み、やがて竹中英太郎が登場します。

 岩田の描く人物は、日本人離れした容姿を持っています。男は彫りの深い顔を持ち、姿はあくまで颯爽としています。そして、女は長い睫毛と見事なプロポーションを持っています。この画風がその当時の人々の憧れを掻き立てたのでしょう。

 一方、竹中は一見素人くさい、現代美術のような実験的画風です。

 岩田に言わせると、「竹中が登場したときは自分のときと違って印刷技術も大分進歩し、グレーがかなりキレイに出る状況になっていた。そのことが、挿絵画家・竹中英太郎を産んだ」と言っています。つまり、ひと昔前なら通用しなかったと言いたかったのでしょう。

 両者とも人気を得ました。しかし、竹中は岩田と違いは8年程で筆を断ちます。

 それから80年以上経ちます。ぼくは岩田専太郎が描く、長い睫毛を持った侍や、着物を着るにはグラマー過ぎるお女中を見ると、決まって大衆演劇の二枚目や女形を思い出します。白塗りの顔に付け睫毛…。今ではモダンでもなければハイカラにもほど遠く見えます。

 一方、竹中英太郎のほうは今でも、画学生が描いたような初々しさと、芸術至上主義的あやしい美しさがあります。古びていません。この違いは一体何でしょう?

 しかし、多分です。岩田専太郎が短命であったなら、今でもモダンでハイカラのまま輝いていたかも知れないと思うのです。
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by arihideharu | 2011-07-18 03:22 | 挿絵 | Comments(0)
丘に上がった船乗り
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 毎日新聞の連載小説「四十八人目の忠臣」が5月で終わり、また赤旗日曜版の「蕣花咲く」も今月で終了しました。ふたつとも約一年間の連載でした。拙い絵でしたが、ご購読の皆様有り難うございました。

 毎日一枚挿絵を描くペースから解放された訳ですが、今でも虚脱感のようなものが残っていて、躰が宙に少し浮いている感じるがあります。例えるなら丘に上がった船乗り、地に足がつかない感じです。ただ、今はこの浮遊感を少しだけ楽しもうかと考えています。

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by arihideharu | 2011-06-26 15:39 | 挿絵 | Comments(0)
ちょっと幸せな気分
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 3.11以来、出口のない迷路に踏み込んだようで、何をしても気が晴れることがない日が続いています。今、世に起こっている問題は、どれもこれも確かな解決方法も唯一無二の解答もない難問ばかりのようです。

 こんな鬱々とした日々を乗り越えるにはちょっとしたお笑いを探すのも一興と、ツタヤでDVDのラインナップを眺めていました。すると「濡れ髪剣法」という初期の市川雷蔵作品が目に留りました。この映画のスチール写真はいろんな本に載っているので、喜劇仕立ての若様ものであることは古くから知っていました。当時、大川橋蔵や中村錦之介も演じていたジャンルで、若き剣戟スターの定番といっていい出し物です。

 その「濡れ髪剣法」がやっと送られてきました。仕事が一段落ついた深夜、例によってウイスキーを飲みながら見ました。期待どおり「ちょっとしたお笑い」の連続で、映画に求めるすべてのものがこの中にはありました。つまり「ちょっと幸せな気分」になったのです。

 そして当然のこととして、ぼくはこの雰囲気を絵の中に取入れようと思いました。これが震災以来鬱々とした気分を「やじろべえ」のようにもとに引き戻すひとつの解決方法のように思えたからです。

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by arihideharu | 2011-05-06 22:33 | 挿絵 | Comments(0)
重い扉
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 挿絵画家になってだいぶ経ちます。勿論大いに気に入っていますが、只この仕事には思わぬ副作用(?)のようなものがあることが分かってきました。

 と言うのは、挿絵画家の仕事の半分は絵を描く以外に原稿を読むことに費やされます。もとより、ぼくは絵を描くのと小説を読むのが何より好きでこの道に入った訳ですから望むところです。

 しかし、10年程前からプライベートで小説を読むことがなくなりました。それまでは仕事に一息ついたときや正月前は、本屋通いをして大量に買い込んだ本を読みふけるのが何よりの楽しみでした。
 
 ところがこの頃は、本屋へ行っても他の人の装丁や装画が気になり楽しめません。また小説を読んでもその世界へ入り込めなくなったのです。重い扉が立ちふさがってしまったようです。ですから、最初の数ページで読むのを止めてしまった本が仕事場に墓石のように重なり積まれています。これはなんとかするしかないと考えてはいるのですが…。何かの罰かと思ったりもしています。

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by arihideharu | 2011-01-25 01:55 | 挿絵 | Comments(0)
「四十八人目の忠臣」3
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 毎日新聞の連載小説「四十八人目の忠臣」も150回を優に超え、いよいよ後半戦。各々が仇討ちの決意を固め、団結に向かうところまできました。
 
 実はここまでくる間、挿絵の中で大きな間違いを一つ犯してしまいました。それは85回目、勅使を迎える場面です。絵柄の背景に徳川家の葵紋を染めた垂れ幕を配したのですが、その葵紋を逆さに描いてしまったのです。読者の指摘を受けて初めて気がつきました。嗚呼!痛恨。後の祭りです。余りにあからさまなミスで、ごめんなさいというしかありませんでした。そして、しばらく落ち込みました。

 なぜ失敗したかといえば、普段ならフリーハンドで描くところを葵紋を大きく詳しく描くために手本を拡大コピーし、トレスしました。そのときコピーした紋を逆さ置いてトレスしてしまったのです。

 実はこういうことがぼくの場合時々起こります。というのは、絵の中に文字や意味のある記号を書くとき、それを絵として描いてしまい、読むことを忘れてしまうのです。そういった間違いを防ぐためチェックを心掛けていたのですが、このときばかりは忘れたてしまったのです。プロとして恥ずかしい限りです。


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by arihideharu | 2010-12-06 20:27 | 挿絵 | Comments(0)
八丁堀の旦那
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 岡本綺堂の「風俗 江戸東京物語」を読んでいて二つほど発見がありました。いずれも、八丁堀の旦那(同心)をめぐる話です。

 江戸町奉行所の廻り方同心が市中を巡回する様子は、裾(すそ)を短めにした黄八丈の着流しに黒紋付の巻き羽織、刀は閂(かんぬき)差しに…。というのが一般的イメージです。この風俗を岡本綺堂は芝居では確かにそうなっているが実際は「大抵の同心は縮緬の着物を引摺るるように丈長にぞろりと着て、大小は落とし差しにしていたものです」と書いています。そうすると藤田まこと演じる中村主水のいで立ちは、差し詰め昔気質の野暮天の旦那というところになります。

 あと一つは、廻り方同心が従える中間についてです。三田村鳶魚は木刀一本だけ差した中間は奉行所のもので、御用箱を背負ったものは同心の供と書いています。この御用箱を背負ったものを綺堂先生は八丁堀の折助と呼んでいます。折助とは中間の一般的呼び名だそうで、いかにも江戸っ子が言いそうな歯切れの良い響きです。この折助、いざというときは捕り物にも加わったようです。三田村鳶魚はこういう小者が廻り方同心の家には常に二三人はうろうろして下男働きをしながら捕り縄などの稽古をしていたと言っています。この連中いずれは岡っ引きの大親分にでもなるつもりだったのでしょう。

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by arihideharu | 2010-11-30 02:34 | 挿絵 | Comments(0)
漫画離れ
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 ぼくが高校に入った頃には貸本屋は少年文化の中心から外れ、舞台は雑誌に移っていました。そして漫画はスポ根ものが流行り、劇画と呼ばれるようになります。漫画は少年文化から既に青年文化になっていました。
 
 ところがその頃から、ぼくは少しづつ漫画から距離を置くようになりました。何故なら、劇画と呼ばれる漫画の一群は、少数の漫画家を除きぼくには魅力的ではなかったからです。ストーリーはともかく絵がついていけませんでした。手塚治虫や白土三平で絵もストーリーも頂点に達したものが、ぼくには後退して行くように感じたのです。

 ぼくは漫画を読むより小説を読むことが多くなっていきました。

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by arihideharu | 2010-11-22 05:33 | 挿絵 | Comments(0)
二人のデッサン家
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 挿絵画家を始めてアイデアに詰まったときや風俗やものの形が分からないとき、一番開いてきた本といえば「北斎漫画」です。岩波から出ている三巻からなるこの本は30年以上前から仕事机のそばにいつも置かれています。

 この本はぼくにとって魔法の書です。本当に困ったとき開きます。そのときは開く前に柏手を二つ打って「北斎先生」と呼びかけます。それから開きます。すると、たちどころに難問を解いてくれます。

 あとひとつ、これは魔法の書というより、虎の巻というべき本です。それは最後の浮世絵師と呼ばれた月岡芳年の画集です。これもまた30年以上いつもそばに置いています。この師匠は幕末の戦絵で有名ですが、神武天皇から始まる歴史画を多く描いていて、浮世絵の範疇を超えています。また線も色も錦絵の完成期の頂点にいる絵師です。ぼくにとっては昆虫少年における図鑑のような存在です。
 
 この二人に共通するのは古今東西屈指のデッサン家だということです。ぼくは二人の線を見ているといつも神聖な気持ちになります。

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by arihideharu | 2010-09-10 16:57 | 挿絵 | Comments(1)