ブログトップ | ログイン
わくわく挿絵帖
sashieari.exblog.jp
カテゴリ:映画・演劇( 41 )
深夜のSF映画
b0185193_1415561.jpg


家族が寝静まってから、お酒と肴を用意して映画を観るのがぼくの楽しみです。
 ふと気がついたのですが、ぼくがもっとも好きな映画ジャンルがどうもSFらしいのです。
 というのも手持ちのDVDを分類すると、アクション&ミステリーもの、邦画時代劇、SFの3種が圧倒的に多いのですが、公開された絶対数から考えると時代劇とSF映画の多さが目につきます。
 ただ、ぼくの場合時代劇は上半ば資料として収集したものも少なからずで、観ていないものもあります。となるとSF映画の多さが目立ちます。

 思い返してみると、自分自身で好きだと自覚しているハードボイルド映画以外で、ここざっと十年でリピート数の多い作品は、『ブレードランナー』『マトリックス』『マイノリティ・リポート』『アイ、ロボット』『メメント』と次々とSF映画のタイトルが浮かびます。
 また、リピート数の多い作品をここ1年だけに限定しても、『クラウド アトラス』『ルーパー』『TIME/タイム』『オブリビオン』『オール・ユー・ニード・イズ・キル』など、やはりSF作品です。

 本来映画館で観るべき映画を自宅でのDVD鑑賞に置き換えると易きに流れ、どうもドキュメント性の強い現代劇や、凄惨さを売りにしている作品はぼくの場合、敬遠する傾向が強いようです。
 要するに、お酒を飲みながら、ちょっとイイ気分になりたいだけなのです。

 その点SF映画はもっともスマートにその条件を満たしてくれる形式らしく、深夜のぼくの胃袋にすとんと収まります。

b0185193_14393634.jpg

by arihideharu | 2015-01-30 14:44 | 映画・演劇 | Comments(0)
今年の女神
b0185193_20532470.jpg


 映画の魅力は、男と女の出会いをどれだけ美しくみせるかにかかっているというのがぼくの見立てです。
 そのときヒロインが天から舞い降りた天使か女神のようにみえれば、その映画は半ば成功したと思うのです。

 その意味からぼくにとって今年の女神は、エミリー・ブラントです。そして、ベスト映画は『オール・ユー・ニード・イズ・キル』です。
 
 この作品における男と女の出会いのシーンはヒロイン(エミリー・ブラント演じる女戦士)の肉体美で始まります。
 腕立て伏せから胸を反り上げるエロスに満ちたる肢体の美しさは、まさに女神が宿っていました。

 エミリー・ブラントが女戦士に宿る女神として降臨するのは『ルーパー』( 2012年度作品)からでしようか。
 すなわち、汗まみれで切り株にむかい、斧を振り上げる出会い場面です。
 また、『アジャストメント』( 2011年度作品)の冒頭で裸足で現れた出会いのシーンでも、彼女は天から舞い降りた天使そのものでした。

 さて来る年、女神はどこでだれのもとへ現れるかと想いを巡らせます。
by arihideharu | 2014-12-29 20:54 | 映画・演劇 | Comments(0)
映画『かぐや姫の物語』
b0185193_4165034.jpg


 しばらく芸術に力があることなど忘れていました。おそらく歌舞音曲から文学美術にいたるまで、世のなかに大量に消費されていく芸術が溢れているせいでしょう。あるいは、作品一つひとつに込められた魂に気を配る暇などないという現代人の弁明に、ぼくも流されているからでしょう。
 それでも時折、だれもがはっと驚く作品が目や耳に飛び込むことがあります。やがて、それらが時代の流れを変える力をもつことになったりします。

 映画『かぐや姫の物語』が時代を変えるほどの作品かはしりません。しかし、通常の作品の100本分ほどの力があるとぼくは思いました。
 この『かぐや姫の物語』は、未知の世界からやってきた美しい娘のファンタジーなどではありません。
 人が産まれ、育ち育てらえれ、学び恋し、希望と挫折をしり、信頼と不信のなかで短い命をまっとうする、われわ自身の物語です。
 
 子を育てた者ならしっています。幸福と希望は産声の中にあり、喜びは子の成長にあることを。
 人生の蹉跌は二度やってきます。最初は青春のなかで、二度目は老いのなかです。そのときわれわれの希望は命のバトンを渡すことです。

 この映画は「人」の通常の営みを、画風においても筋立てにおいても可能なかぎり粉飾を排し、こつこつと素朴に描いていきます。それが心のど真ん中に突き刺さります。
 『かぐや姫の物語』は世界中の人々に観てもらいたい作品です。

 追伸。
 この映画を観て帰ると、郵便受けにネットで予約していた、期待のSF青春映画『クロニクル』が入っていました。
 早速、深夜に観ました。
 結論から言うと、ぼくにはこの映画は人生のごく一部しか語っていない、通常の作品にみえました。
by arihideharu | 2013-12-19 04:14 | 映画・演劇 | Comments(0)
映画『風立ちぬ』
b0185193_1650223.jpg


 黒澤明の晩年の作に、『夢』というぼくの好きな作品があります。これはオムニバス形式で、いわば黒沢の制作ノートといった読後感をもつ、イメージの断片集です。
 ちょっと葛飾北斎における『北斎漫画』を連想させます。

 宮崎駿の『風立ちぬ』を観て、黒澤の『夢』を思い出したのは、もちろん夢のシーンが多いからですが、それよりも、ストーリーこそ小説や史実などからヒントを得ながらも、実は宮崎駿の頭に少年時代からため込んでいた動画を主人公の夢という形で吐き出すためにストーリーが奉仕している構造が黒澤の『夢』に似ていると思ったのです。
 あれほど奇想天外な物語で観客を驚かせた両雄がたどり着いたものが、ハラハラドキドキの世界ではなく、俳句のようなのどかさと諦観に満ちた世界は、活劇で名をなした者の映画にしては、カタルシスを欠いたスケッチ集のような仕上がりで偶然の一致とは思えません。
 
 映画『風立ちぬ』は、近代史の山場と天才飛行機屋の大悲恋劇という骨格を持ち、細部には夥しい量の情報を描き入れているはずですが、なにせ作りが俳句なので読み手の力量によって、駄句とも名句ともとれる仕掛けです。
 しかもテーマは戦争で、季語は飛行機であり、空や雲であり、帽子の少女であり、メガネの青年であり、病気や希望、破壊や死です。もちろん季節は夏です。
 それら一つひとつの存在に理由などありません。むしろ、葛藤と理由を求めることを停止しているように見えます。
 おそらくこれは宮崎駿の巧妙なワナで、我々は陰に隠されたちょっとアナーキーな狂気を時間をかけながら少しずつ味わうことになるのだと思います。
 天才と凡夫とのずれです。

 ああー、「夏雲や動画師どもの夢のあと」ご無礼。
by arihideharu | 2013-08-13 16:58 | 映画・演劇 | Comments(0)
映画『クラウド アトラス』
b0185193_22591613.jpg


 大概の映画はストーリーを訊かれて困ることはありません。「ブルース・ウイルス主演のアクション映画で…」と切り出せば多くの人は絵をうかべるでしょうし、舞台設定をいうだけで、話しの結末まで言い当てる人もいるかもしれないからです。ところがウオシャウスキー兄弟の最新作『クラウド アトラス』はその点大いに困ります。
 何故なら、トム・ハンクスが出るSF映画と言われても想像しにくいし、舞台設定を訊かれても、そもそもひとつではなく、時代が違う別々の物語がバラバラにコラージュのように展開しているので、これを整理して説明するのがむずかしいからです。
 
 そんな理由もあって冒頭の5分、観客は何がなんだか分からない混乱の中に置かれます。ところがこの映像感覚が何かに似ているのに気がつきます。それは多くの人が死を覚悟したとき、異口同音に例える「走馬燈のように自分の一生が脳裏にうかぶ」という、あの感覚です。そう、断末魔の感覚です。
 しかしながら、この不思議な映像も見慣れてくると筋が見え始め、6つの時代設定の違う物語が同時並列的に進行していることが分ってきます。そして、大きな共通項も見え始めます。
 ひとつは、各時代の主人公が生死に関わる危機な状況下にあること。そして、いまひとつは総ての物語の主要キャストがメイクアップと衣装をかえて、重複した少数の役者で演じられていることです。いわば、歌舞伎のように早変わりで因縁因果の物語を演じる形式です。 

 ウオシャウスキー兄弟作品の特徴は『マトリックス』でも見られるように、いま自分がいる世界は、誰かの夢かもしれないという感覚が、全体をおおっていることです。自分の存在あるいはこの世に「ゆらぎ」を見ているのです。
 それは、この世に絶対的価値をおく「危うさ」を察知してしまった者たちの群れが、自分の親や兄弟あるいは祖国さえフェイクではないかと疑い出し、迷宮の中に入ってしまった軌跡が映画『マトリックス』なら、『クラウド アトラス』は迷宮に入りながらも戸惑いはうすらぎ、ついに迷宮を俯瞰する眼を身につけた者たちの群像劇です。しかもこの眼は複眼で、この世は幾重にもなる多元的存在に写っているのです。つまり輪廻転生を目視するに至っているのです。

 多分、日本人の多くは『クラウド アトラス』から手塚治虫の『火の鳥』を連想し、『火の鳥』を映画化するなら、この方法があったかと膝をうったと思います。すなわち、Ⅰ話2話と長編を連作する形ではなく、総ての時代の物語を並列進行させるこの遣り方です。
 そしておそらく、日本の映画監督やアニメ作家は「またやられた」感に襲われたのではないかと想像します。
 しかもこの映画は、東洋的世界観を大げさに語らず、むしろこの世の不可解さに理由を求めないさりげなさは『ライフ・オブ・パイ』といい勝負で、これがこの映画の美点で大傑作になった理由と思われます。
by arihideharu | 2013-03-30 23:00 | 映画・演劇 | Comments(0)
仇討
b0185193_19393963.jpg


 どうも、映画『96時間 リベンジ』を観てから気持ち悪さが続き、その正体を考えているうち、殺人や仇討のことを考え始め、最後には死刑廃止論のようなものにたどり着いてしまいました。また、その過程でいやな臭いが消えず、これを書いてしまわないと臭いが消えないように思い、少し書いてみます。

 「やられたら、やり返す」というのは、人の感情としても社会的道理としても、ごく自然なことで、人殺しは死をもって罪をあがなうことは古今東西普通に行われていたと思われます。
 また、ぼくが時代小説を読み始めたころの筋立てには「やられたら、やり返す」いわゆる仇討ものが今より割合が大分多っかたと記憶します。言うまでもなく仇討は武家社会の合法的私刑です。
 戦乱をくぐった侍の心得としては、なん時も自らは刀を抜かないのが最上の策ですが、そのためには相手に刀を抜かせない工夫が必要です。すなわち、武芸の鍛錬を怠らず、いつでも戦いの備えをして、世間にあいつは強いぞという雰囲気をそれとなく醸しておく。つまり抑止力です。
 しかし、大概の侍は腕以上の刀をもち、つまらないことでカッとしてそばにある刀を抜いて、気がつくと大切な隣人を殺している。これが小説に出てくる仇討ものの発端の多くです。
 そのため、仇討は友人知人を討つことになり双方とも多大なダメージを受け悲劇を生む結果となります。
 武士の面目だ、義のためだといいながら、実際は今とさほど変わらず色や欲、嫉妬やつまらいプライドが主な原因でしょうから、討つ方も討たれる方も後味の悪さがだけが残ったことでしょう。
 さらに警察制度が整っていない時代、仇討は残った縁者がカタキを捜し討つというのが定法ですから、10年20年とカタキを求めているうちに、恨みがいっそう深くなることもあったでしょうが、馬鹿馬鹿しくなる者も多かったと思われますし、いずれにしろ心身とも疲弊します。
 また、討たれる方もなんのための一生と、自問自答しながら逃げ続ける人生に暗たんとしていたに違いありません。
 もし、仇討が倫理的に正しいというなら、それは唯一、カタキとされる者が背負った罪の苦しみを断ってやる、武士の情け以外にないと思われます。つまり、命を断ってやることで苦悩から救ってやる慈悲です。
 遡ると、近世の仇討は陣中の喧嘩両成敗が影響いているらしく、戦場では味方の兵隊同士、殺した方も殺された方も両方悪いとう理屈です。しかも面白いことに、仇討は決闘法式で行われ、勝った方が正義を勝ち取るという強引なやり方です。ただ討つがわは、不意を突くことも助太刀を用意することも可能ですから、仇討が成就することが自然多くなります。勿論、返り討ちも大いに可能ですから、腕にものいわせ己の正義を立証することも出来ます。その場合、新たな仇討は幕府は認めなかったようで、以後は喧嘩の類とされたようです。

 「リベンジ」イコール仇討を近代的に合法化したものが死刑制度とするなら、死刑制度は「やられたら、やり返す」を認める体系になります。それを国家間に置き換えると、とりもなおさず戦争を肯定する理屈にたどり着きます。

 おそらく、映画『96時間 リベンジ』が後味が悪く感じられたのはこれと関係しているような気がします。つまり、殺しの連鎖です。

b0185193_19401069.jpg

by arihideharu | 2013-02-25 20:40 | 映画・演劇 | Comments(0)
「ハードボイルドじゃないぜ」映画『96時間 リベンジ』
b0185193_5212783.jpg


 活劇は黎明期から映画の華で、ヒーローがどんな敵でも何人いようと、ばったばったと格好良く倒すのが、観るものをすかっとさせ映画の人気を支えてきました。
 伝説のチャンバラ映画『雄呂血』は無数の敵をたった一人で打ち負かす殺陣が見所になり、座頭市やマカロニウエスタンは瞬時に多数の敵を倒すのが見所となりました。
 いずれにしろ活劇は人殺しを見せ物化するわけですから、そこには暗黙のルールがあったと思います。それは殺される方に過度の人格や人生を背負わせないという決まりです。多数の敵を倒す場合はなおさらです。死んでいく敵は切られたワラ束や撃ち抜かれた空き缶と等価という前提があるから活劇は成立するのです。でないと歓声は悲鳴に変わることになるからです。

 ところが映画『96時間 リベンジ』はこのルールを破るという暴挙にでます。
 シリーズ1作目の『96時間』は小気味いいアクション映画の快作でした。ストーリーは、年頃の愛娘が旅先のパリで人身売買組織に誘拐されるのが発端で、それをとうが立った元CIA工作員の父親が、たったひとりでのり込み救い出すというものでした。この一見疲れた顔のオヤジ、おそろしく強く、ほぼ無傷で1対多数の戦いを制します。いわばサイレント時代からある、恰好よく人殺しを見せる、おとぎ話のような活劇スタイルです。
 そして本作『96時間 リベンジ』は、前作で倒された極悪非道の悪人たちにも恋人や親兄弟がいて、彼らはリベンジすなわち仇討ちを企てます。それを今回も短時間に、例のオヤジが圧倒的無敵ぶりで返り討ちにするという筋立てです。
 ここで問題が起きます。映画の冒頭で前作で死んでいった者たちの葬式シーンを『ゴッドファーザー』のようなドキュメンタリーな映像で見せたことです。当然、観客は今度の活劇は悲劇の末路を予感したはずです。なぜなら、死んでいくものがワラ束や空き缶と等価ではないという前提を与えたからです。
 しかしながらこの映画、最後まで徹底したB級ぶりを崩しません。すなわち、何の憐憫もみせずに1対多数の戦いを圧倒的強さで今回も制して終わるのです。
 これで観客は能天気な活劇を観ているというより、無差別殺人の現場を見ているような気持ちの悪さを覚えます。
 
 椿三十郎は人を斬ったあとは、おそろしく不機嫌になり、ブルース・リーは残心の中、虚空をみつめ悲しい雄叫びを上げます。それは彼らなりの弔いの儀式だったと思います。
 映画の作法として、死んでいく者に人格を持たせたならそれ相応の礼儀というものがあるはずです。
 「これじゃちっともハードボイルドじゃないぜ」ということです。
by arihideharu | 2013-02-10 05:51 | 映画・演劇 | Comments(0)
映画『007 スカイフォール』
b0185193_23341896.jpg


 映画好きは映画を見ながら、映画の夢を見ます。
 例えるなら、評判のレストランの料理が期待以上だったとき、ぼくたちは無意識にかつて堪能した味の記憶をひもとき幸福の思い出を蘇らせ、目の前の料理に舌鼓を打つ構造に似ています。
 美味が幸福センサーを刺激するように、面白い映画もまたそのセンサーを刺激し、堪能した名画の記憶を蘇らせます。
 映画『007 スカイフォール』はいわば、老舗料理屋の新しいコース料理です。客は変わらない伝統の味の中に、最先端の新しさも求め、期待のハードルは高くなる宿命の中にあります。
 
 冒頭から始まるアクションシーンで、ぼくらはトム・クルーズの『MI』シリーズやマット・デイモンの『ボーン』シリーズと比べても、主演ダニエル・クレイグの体技が遜色ないのを見て半ばほっとし前菜を賞味します。同時に初期ボンドのショーン・コネリーの殺陣が緩慢だったことを思い出し、活劇の進化と映画技術の進歩に隔世の感を覚えます。また、日頃からダニエル・クレイグがスティーブ・マックイーンと似ていると感じていた人々は派手なバイクアクションで、その感を深めたはずです。このように出だし10分で切れのいいアクションを見せ、観客を引きつけ、その間多くの映画ファンは古いアクション映画の夢を見たはずです。最新の「007」はこのように傑作の予感で幕が開きます。
 
 追っかけは活劇の基本です。さすが老舗のメニューです『スカイフォール』はその基本で始まります。しかも、市街地の屋根を使った追っかけは主人公の墜落で終わり、ヒッチ・コックの『めまい』を連想し、これにより今回の最大の敵は美貌のヒロインや未知の部外者ではなく、自分自身を含めた内部にいることを予告します。
 それは冷戦の終了で、ヒーローものの敵が分かりやすい外部の組織ではなく、決戦にのぞむアスリートのごとく敵は己自身の中にひそみ、あるいは自分とよく似た境遇の実力者という、もう一人の自分とのバトルという構図の踏襲です。
 近年の「バットマン」や「スパイダーマン」、「トイストーリー3」の敵との類似性です。かつて宮崎駿が『天空の島ラピュタ』で予言したように敵は己自身の血、または人類そのものというニヒリズムの前兆がそこにあります。同時にそれは古典劇そのものです。
 「スカイフォール」の意味は分かりませんが、ボンド家が代々、天の落ちた場所、あるいは天から堕ちた者のすみかに住んでいることを匂わせ、明らかに新しい神話を作ろうという意図が伺わえます。

 そして後半に入ります。メインディッシュは木製の上げ戸に収まった、創業時絶大な人気があった一皿です。すなわち古い車庫に収まった「アストンマーチDB5」の登場です。勇者は天馬を得ます。本作カタルシスの始まりです。このとき、幸福センサーの針はふりきれ計測不能となります。 
 ぼくたちの世代、洋画体験は『007』から始まります。例えるなら、筆おろしの敵娼あるいは初めての男との再会のようなもの…。感極まります。ぼくは涙が本編終了まで止まらなくなりました。
 挫折と虚無の淵にたたずむ近代をのり越えるのは、無垢な少年や少女の夢への回帰ではなく、老兵と老妓のナルシシズムの匂いがするローテクという、前近代を継承したもがこの先を生き残るという逆説がここでも証明される結果となります。これは伝統を伝えてきた欧州人の矜持です。これが本来の保守主義で、美味を作り出す方法はこれしかないという結論です。

 最後に『007 スカイフォール』がシリーズ最高傑作になった決め手は、「007」を演じるダニエル・クレイグの鍛えた裸像が無駄な筋肉をもったボディービルダーのような逆三角形ではなく、着痩せして見えるズンドウ型で、それはハードボイルドを支える正統な肉体をあらわしていたからです。

b0185193_23345349.jpg

by arihideharu | 2013-01-16 23:52 | 映画・演劇 | Comments(0)
パリに降る雨。映画『ミッドナイト・イン・パリ』より
b0185193_22121858.jpg


 しとしと降り続く雨の中、近くの運動公園を傘を差しながら散歩をしていました。バックネット裏から青葉に囲まれた野球場と陸上トラックが見えるあたりにさしかかったとき、iPodからR&Bの名曲、エタ・ジェームズの『At Last』が流れました。近頃、繰り返して聴いている曲です。ぼくは立ち止まりながら、このシーンは最近見たばかりだと思いました。
 
 やがて、ウッディー・アレンの映画『ミッドナイト・イン・パリ』のタイトルバックにそっくりだと気がつきました。
 
 その映像はパリの町を人の見る高さから固定カメラで撮らえていて、写っているのは観光地のパリではなく生活者のいるパリです。
 
 信号が変わって交差点を渡り始めるビジネスマンの群、東京でもニューヨークでも変わらない朝や午後の風景です。そこに雨が降ります。バックには古いジャズがソプラノサックスのリードでスローなテンポで優しく流れています。
 
 ぼくの目には、段々とパリの町角が安藤広重の描く江戸の町に見えてきました。都市に降る雨は一瞬、古今東西に関わらず共通の美を生むのかも知れません。
  
 あるいは単に、しとしと降る雨の景色を気に入った名曲を流しながら見ると、魔法が掛かったように、普段見ている景色でも異次元の美しさになるということかも知れません。
 
 それにしても、映画『ミッドナイト・イン・パリ』のタイトルバックは、これまで見たことがないほどの美しさで、これだけでもこの映画を観る価値があると思ったほどでした。
by arihideharu | 2012-07-12 22:16 | 映画・演劇 | Comments(0)
「赤ひげ」における帯締め
b0185193_18405234.jpg


 黒澤明の映画「赤ひげ」でドラマ前半で内藤洋子演じる武家の娘が加山雄三演じる青年医師を小石川養生所に訪ねるシーンがあります。若き内藤洋子が可憐に演じているアレです。髷はきりっと島田に結い、帯も文庫に結んでいます。そしてその帯には白く太い丸ぐけの帯締めが結ばれています。

 実はこれは結構重要なことあるいは事件とぼくは思っています。それは時代考証にうるさかったと思われている黒澤明がこれを許しているからです。これとは帯の上から結ぶ帯締めのことです。

 というのは江戸時代は帯締めはしないというのが基本だからです。それは多くの錦絵を見ても分かります。帯締めをしている絵を探すのは相当骨が折れます。ないわけではありません。まれに幕末期の芝居絵や大奥をテーマにしたものに丸ぐけの帯締めをしたものがあります。一般の女性の中にそれを見つけるのはさらに大変になります。ただ、明治まで数年を残した幕末を撮った写真を見ると組み紐の帯締めをした女性がちらほら見つかります。

 時代考証家で映画にもたずさわった林美一さんの「時代風俗考証事典」を見ると、嘉永以前に帯締めの資料はないそうで、鞍馬天狗や新撰組の映画ならともかくそれ以前の時代設定では許されないと書かれています。また嘉永以降でも大奥の御殿女中に限られるようだとも書かれています。

 とすると帯締めの使用は、幕末の嘉永以降の時代設定だとしても間違いということになります。

「赤ひげ」における帯締めの使用は内藤洋子が演じる武家の娘だけではありません。香川京子が演じる狂女も歌舞伎の八百屋お七のように、振袖の着物に帯をふりわけにしてその上に太い帯締めをしっかり結んでいます。また内藤洋子の母親役の田中絹代は上等そうな帯の上に白い帯締めをきりっと結び、こちらは明治の上流婦人のようです。

 これはどうも確信犯的に江戸時代がもうすぐ終わることを感じさせるための演出ではないかと思えてきます。

 というのも映画の冒頭で加山雄三演じる青年医師に長崎帰りを映像で表現するため舶来らしきマントを着せていますが、それと帯締めは呼応しているのではと思えるからです。

 しかし一方では林美一さんが「鞍馬天狗や新撰組の映画ならともかく」と指摘しているとおり、戦前の鞍馬天狗のスチール写真をみると武家娘が太い丸ぐけの帯締めをしているのが定番のように出て来ますから、黒澤明の独創では勿論ありません。

 林美一さんが「時代風俗考証事典」を書かれたのが三十年以上前ですが、その当時すでに時代設定に関係なく帯締めをやたらとするようになって困ると書いていて、今に始まったわけではないのが分かります。

 ぼくが映画「赤ひげ」における帯締めをとりわけ問題にするのは、黒澤映画で帯締めを許したのがこの事態を助長したのではと睨んでいるからです。買いかぶりでしょうか?

b0185193_524418.jpg

by arihideharu | 2011-12-11 19:51 | 映画・演劇 | Comments(0)