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わくわく挿絵帖
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カテゴリ:映画・演劇( 41 )
「一命」
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 映画「一命」を見ながら、ぼくは終始首を捻りました。理由は全編を被う、くたびれ薄汚れた江戸の風景です。

 映画の時代設定は寛永年間。江戸初期です。徳川は葦原と原野の地に幕府を開き、お城の周りに大名旗本の屋敷を置き、大わらわで町普請を始めます。一方では島原の乱もあり、人の気分はまだ戦乱の世から抜け切れぬ時代です。

 ぼくはこの映画を見ながら、桂三木助の名演「三井の大黒」をカットバックするように思い出していました。

 落語「三井の大黒」にはこんなシーンがあります。江戸のイナセな大工の棟梁が、行き倒れのような老人を見つけます。そしてその老人が西から来た大工だと知ると、こう切り出します。

「仕事は山ほどあるが、どうにも人手が足りねー。俺んとこへ草鞋を脱いでいかねーか。三年でも五年でも働けば、懐を暖かくして国へ帰ぇーれるぜ」

 ところが草鞋を脱いだのはいいのですが、飯を食って寝るばかりで一向に働く気配がありません。とうとう痺れを切らした棟梁、こう老人に説きます。

 「江戸は火事ばやい所だから、立派そうな家構えで、百人の手間が掛かっているなと思っても、中を見ると八十人の手間しか掛かっていない。また火事になると思うからどうしても雑になる…。江戸の大工の仕事はこんなもんだから、お前さんのような西の大工は腕が落ちることはあっても、決して腕を磨く所じゃねー。お前さんも、江戸見物が済んだら、そろそろ国へ帰ったらどうだ」棟梁はこの老人が使い物にならないと踏みます。

 ご存じ、江戸の大工が、大工の神様「左甚五郎」にそれとは知らず、文字通り「釈迦に説法」をする触りです。

 この噺は江戸中期以降の設定と思われますが、それでも江戸初期の新しく町が膨れ上がっていく雰囲気が浮かびます。また、江戸は京都などと違い常に新しい町だったことも伺えます。

 おそらく、江戸初期は原野のあちこちに新しい普請場が建つ一方、お城の周りは大名屋敷が壮麗さを競い合うように建ち並び、またご城下には町人地と寺社地を整え、都市が機能し始めた活気あふれる時代と思われます。

 ところが「一命」に見えるのは、くたびれ果てた江戸です。なんだか情けなくなりました。

 ぼくは映画「切腹」をリメイクをすると聞き、二つのことが思い浮かびました。冒頭の井伊家三十五万石の格式の表門をどう撮るかということと、主要場面である井伊家邸内のセットをどう造るかです。

 表門は京都辺りの文化財を使うにしても、CGを使って木部を黒塗りにして門金具を金銀に換え、桃山風の華麗な造りにすることは出来ないものかと、勝手に考えました。そして、井伊家邸内だけは溝口健二も黒澤明も裸足で逃げ出すようなセンスが良くスケールのでかいセットを造って欲しいと心から願いました。

 ぼくは井伊家の質実であり華麗な佇まいの邸内を空想していました。ところが出て来たのは、墨汁で襖や壁あらゆるものを汚したように見えるセットです。ぼくには悪夢でした。また、ロケ地も寛永期の江戸には見えませんでした。

 そもそも江戸は新開地です。人文を重ねた地蔵群も、古寺も似合いません。

 「十三人の刺客」で 監督・三池崇史は、ぼくらが待ち望んだ素直に温故知新を標榜する時代劇を作ったように見えました。今回は的が外れたようです。

 映画は「夢の塊」ですが、悪夢はいけません。

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by arihideharu | 2011-10-27 04:53 | 映画・演劇 | Comments(0)
ゴジラの脚
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 ぼくの子供時分のお盆映画というと「ゴジラ」でした。今から考えると、子供の夢を乗せるにしては随分と暴力的な映画で、人間の文明や秩序を破壊して廻るヒーローですから、かなりアナーキーで危険な映画だったことに気がつきます。
 
 見せ場は勿論破壊シーンです。円谷英二の特撮はスローモーションを多用し画面の一枚一枚が耽美的で、見るものに恍惚感を与えました。まるで、破壊する快感と滅び行くカタルシスを子供達に学習させているようでした。そして、それを支えていたのは限りを尽くしたリアリズムでした。

 ところが限界もありました。肝心要のゴジラが小さな子供が見てもすぐ分かるような着ぐるみ…。人が中に入っているのがバレバレで、特に後ろ脚が獣の脚ではなく、歌舞伎に登場する馬の脚と同様で間抜けな膝っ小僧が見えるようでした。

 これでこの映画は作りごとだと鼻っから分かる仕掛けです。なーに浅草奥山の見せ物と変わらぬと固唾をのみながらも、どこかで安心しながら見ていたような気がします。

 その後ハリウッド映画の特撮方ハリーハウゼンが、ゴジラの特撮を「子供だましだ」というようなことを言っているのを聞き、膝を叩きました。

 実はぼくはゴジラより、ほぼ同時期に見たギリシャ神話を題材にしたハリーハウゼン監督の「アルゴ探検隊の大冒険」の方が大っぴらには言いませんでしたが贔屓でした。コマ撮りの怪物の方が合理性があると感じていたからです。
 
 ただ、「どこかで安心しながら見る」というのは娯楽映画の王道だというのも明々白々な事実です。特に子供には必要でした。

 それから数十年経って、スピルバーグによって作られた「ジュラシックパーク」のなかで、原を駆ける恐竜の群れを見たときです。ぼくは嗚咽し涙が止まらなくなりました。何故なら、間抜けな脚を持ったゴジラではなく本物のゴジラがいたからです。人類が初めて恐竜を目撃した瞬間です。

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by arihideharu | 2011-07-08 00:37 | 映画・演劇 | Comments(0)
映画「ブラック・スワン」
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 総ての芸術は現実を模倣するところから始まります。この模倣力において映画はカメラという機械を手に入れたことによって、他の芸術手段と比較にならない程のアドバンテージを持ちました。そして、ストーリーと音楽が加わります。我々はさらに無防備に映画の中に入り込み、現実との境目をなくしていきます。

 映画「ブラック・スワン」はナタリー・ポートマン演じる若きバレリーナが、初めての大役を目の前にし、そのストレスから現実と自己の幻想世界との境目が分からなくなる恐怖を描いた作品です。

 見どころは、近年のCGや特殊メイクの進歩と演出の妙によって、現実と幻想の境目が消え、我々も主人公と同様の恐怖体験をしていくところにあります。

 そして、もうひとつの見どころは女優ナタリー・ポートマンが物語が進むにつれ、いつの間にかドキュメンタリーを見るように現実の若きバレリーナが世紀のプリマドンナに成長していくのを目撃している気分にさせます。

 以上のように映画「ブラック・スワン」の最大の魅力は、多くの境目が透明化し、なんのストレスもなく彼女の狂気を共有化することにあります。

 この境目の透明化は映画の本質であり、作る上での目標でもあるので、映画「ブラック・スワン」は見事に一直線に成功した最高の作品と思われます。

 しかし、総てがうまくいったと思われるこの作品、どこか腑に落ちないところがあります。おそらく、すべての境目が消えたために見る者の想像力をかき立てたり、感情移入したりという隙間がなくなったせいと思われます。ですから、これ以上の映画はないと思わせる反面、どこか寂しくなる映画でもあります。


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by arihideharu | 2011-06-01 02:54 | 映画・演劇 | Comments(0)
絵に描いたような八丁堀の旦那
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 ぼくの仕事は時代小説の挿絵を描くことですから、見たことのない物や事をそれらしく描くという作業になります。そしてその大半は人物を描くことに費やされます。  

 人物を描くにあたって、最もやっかいなのが髷(まげ)です。理由は簡単で現代において本物を見ることがないに等しいからです。

 そこで参考になるのは映画や芝居ということになります。只、映画や芝居で見る髷はカツラですから、基本的に大げさにデフォルメされています。故に、そのまま写すとそれらしく見えません。その結果、参考にしつつもアレンジを加えながら描くということになります。

 小説の中で最も多く出て来る髷の名の一つに、町奉行所の役人と一目と分かる「小銀杏」とか「小銀杏細刷毛」といわれる髷の形があります。これは武家の髷と町人の髷を足して合わせたような、八丁堀風とよばれる独特のスタイルです。特徴は髱(たぼ)と呼ばれる後ろ髪を少し膨らませている反面、チョン髷が普通の侍スタイルより細く短くきりっと結ってあります。

 しかしながらこの髪型、活字ではよく見るのに映画やテレビで見ることは皆無と言われています。つまり「むっつり右門」も「中村主水」もどういう訳か八丁堀風の「小銀杏」にはなっていません。

 ところが近ごろ集中的に見ている初期市川雷蔵作品の中に、この八丁堀風「小銀杏」を結い、黄八丈の着物に黒の巻羽織…。絵に描いたような八丁堀の旦那が出てくる一本を発見しました。1963年製作、監督・森一生、脚本・小国秀雄による「昨日消えた男」です。

 ハードボイルドな題名からも推察されるようにミステリー仕立ての作品です。雷蔵演じる主人公八代将軍吉宗が探偵趣味が高じるあまり、大岡越前守に頼み込んで八丁堀の同心にしてもらい、難事件を解決をするという荒唐無稽の極みのような軽いのりの作品です。

 これがちょっと幸せな気分にさせてくれる秀作で、冒頭は江戸湾に浮かぶ二艘の弁財船のシーンから始まります。これがドキュメント感があって、これだけでぼくはうっとりしてしまいました。また江戸の町のオープンセットも本当に美しく、時代劇の絶頂期の美は正にここにありと思わせます。

 言うまでもなく名監督・森一生の師匠は時代劇の神様・伊藤大輔であり、小国秀雄は黒澤明に鍛えられた脚本家です。また大映の美術は溝口健二の洗礼を受けています。

そうした中で、市川雷蔵が演じる絵に描いたような八丁堀の旦那が登場します。幸福の極みです。

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by arihideharu | 2011-05-27 00:00 | 映画・演劇 | Comments(0)
映画「ウォール・ストリート」
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 映画「ウォール・ストリート」を妻と見終わって、ぼくは「面白かった?」と聞きました。妻は首を二度横に振りました。「どこが面白くなかった?」とさらに聞くと「マイケル・ダグラスが何をしたいのか分からない」と答えました。ぼくも「その通り」と思いました。しかし、妻と違いぼくはかなり面白いと思いました。

 映画「ソーシャル・ネットワーク」が天才的青年を通して描いた社会派ドラマなら「ウォール・ストリート」は天才的中年ギャンブラーを通して描く社会派ドラマで、両者は良く似た構図に見えます。しかし「ソーシャル・ネットワーク」は最後まで緊張の糸が切れずに終わりますが、「ウォール・ストリート」はチャーリー・シーンが登場するあたりから緊張の糸がゆるゆるで、思わず苦笑いです。

 ところが、ぼくはこのゆるゆる感が途中から奇妙な快感に思えてきました。主人公(マイケル・ダグラス)が株屋という名のギャンブラーですから、命がけの勝負をし、やられたらやり返す、それもイカサマを使って。これが主な筋立てです。

 この複雑不可解な現代社会を単純なカウボーイ映画のようにして片付けてしまう、この明るさと雑さが、この映画の最大のとりえです。見終わったあと、ぼくはかつて植木等やフランキー堺が出た映画の中にこんな快感を覚えたの映画があったことを思い出していました。それはエンドロールにながされる青空とレゲエ風の歌のせいかもしれませんが。

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by arihideharu | 2011-02-28 19:35 | 映画・演劇 | Comments(0)
「これほど面白いアメリカ映画はいつ以来だろう?」
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 公開中の映画「アンストッパブル」と「ソーシャル・ネットワーク」を見ました。

 「アンストッパブル」は乗り物を使ったパニック映画で、最初から最後まで一気に楽しめる映画でした。とは言え、こういう映画は決められた型があるようで、スタート5分で結末や過程がうっすら見えてきます。したがって、先日のサッカーアジアカップ戦を見るようなドキドキ感にはほど遠く、練習試合を見ている感じで終わります。

 一方「ソーシャル・ネットワーク」はかなりのドキドキ感がある良質な青春映画です。しかも、主人公は天才という設定。古くは「モンパルナスの灯」あるいは「アマデウス」「グッド・ウィル・ハンティング」などの名作を連想させます。只それらより圧倒的に優れている点があります。それは主人公がいま実在し、物語もほぼ現在進行中の出来事を扱っていて、フィクションでありながら現実との境目が希薄という仕掛けです。

 映画の楽しさの一つには見ているうちに主人公と一体となり恋や冒険をし、時には映画の中で歌ったり踊ったりするところにあります。しかしこの映画は主人公が天才という異常人ですから、感情移入し共感を持ちつつもどこかに違和感があり一体とはなりかねます。どうもこの一体となれない主人公との距離の不安定さがこの映画の最大の魅力と思われます。多分、一体となれないもどかしさが、我々一人ひとりの現実と似ているせいかと思われます。誰もが自分に違和感を持ちながら生きていると考えるからです。そしてまた、この主人公のように暴言を吐いたり、嘘をついたり、人を裏切ったりそれら総てが日常そのものだからでしょう。

 見終わったあと、「これほど面白いアメリカ映画はいつ以来だろう?」とぼんやり考えていました。


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by arihideharu | 2011-02-07 01:00 | 映画・演劇 | Comments(0)
「最後の忠臣蔵」
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 怖い話しと泣かせる話しは苦手なので映画「最後の忠臣蔵」は世評に高いようでしたが避けてきました。しかし正月映画を選ぶとしたら、やはりこれかなと思い直し妻と一緒に見に行きました。

 評判どおりクライマックスに近付くと、あちらこちらからすすり泣く声が聞こえます。ぼくも妻も例外ではありません。期待どおりと言えます。

 昨年は池宮彰一郎絡みの時代劇作品が2本ありました。言うまでもなく「十三人の刺客」とこの「最後の忠臣蔵」です。どちらも主人公が最後に死ぬ話しです。

 池宮彰一郎の作品は侍の生き方がテーマですから、最後は戦って斬り死にするか自刃するしかありません。生き残る選択肢を捨てたところから物語が始まります。

 考えてみると、これはかなり異常なことで日常レベルではありえません。しかし、映画人であり小説家であった池宮彰一郎はこのことにこだわりました。多分、戦時中に多感な青春期を送ったことと大きな関係があると思われます。

 同じ戦中派の映画人鈴木清順は「大正生まれの理想は野垂れ死にすることだ」と歯切れいい江戸弁で言っていたことがありました。独特の死生観です。

 また、池宮彰一郎も座談の話しの流れで「名人上手と云われている職人さんでも生活ぶりは、貧乏なものです。半ば飢えている。物書きも似たようなもので、そういうものだと思っている」そんなことを言っていました。

 そして、あれだけ売れていた池波正太郎も住んでいた家も仕事部屋も余りに質素なので、掲載されたグラビアページを見て唖然とした記憶があります。

 いずれも大正末期に生まれ、兵隊として負け戦のなかを青春を送った者たちです。彼等の微妙で複雑な人生観はいつもぼくを惑わせます。それはいつでも死を隣に置いて己の生き方を問うていたからだと思われます。

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by arihideharu | 2011-01-10 21:52 | 映画・演劇 | Comments(0)
「めまい」

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 先週あたりまでBSでヒッチコック特集をしていました。その中でぼくは「めまい」を見ました。数多い名作の中で特にこの作品を見たいと思ったのは、勿論キム・ノバックを堪能したいというのもありますが、実はジェームズ・スチュワートが演じる主人公の昔の彼女が住むアパートのセットをもう一度じっくり見たいと思ったからです。

 彼女の職業は画家という設定で、アパートの広いフロアはアトリエになっています。このセットが実に素敵に出来ていて、こんなアトリエをいつか持ちたいと「めまい」見た当初からずっと思っていたのです。とはいうものの、このアトリエの細部の記憶はかなり薄らいでいます。ですから、再確認しておきたかったのです。

 20畳を少し超えるぐらいの部屋でしょうか。ゆったりとした窓には、すだれのブラインドが掛かっていて少し南国を思わせます。部屋の中央には商売道具の仕事机、イーゼル、壁にはたっぷりの本棚を置いています。空間はまだまだ残っています。そこにはささやかな台所とバーカウンター、ソファーや椅子がきれいに配置されています。空いた場所ではちょっとした運動も出来そうです。けっして大き過ぎず豪華でもないのが魅力です。むしろアメリカの基準からいったら、かなり質素かもしれません。

 こんなアトリエが欲しいと思ってから大分経ちますが、ちっとも実現せず、狭い我アトリエといったら、書き損じの下絵や資料の山は乱雑を極め、どこから手を着ければ片付くのか、正月を前にして嘆息をつき「めまい」がしそうです。

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by arihideharu | 2010-12-27 00:17 | 映画・演劇 | Comments(0)
映画「武士の家計簿」
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 映画「武士の家計簿」を見てきました。丁寧な作りで最後まで好感を持って見ることが出来ました。特に猪山家の生活の場である屋敷内のシーンはセット撮影でしょうか、武家の端正な暮らしぶりが良く伝わってきました。建物、部屋、調度、着物といった大小道具類が、さすが加賀前田家。家中の暮らしぶりもあか抜けている、と感じさせるに十分でした。

 出色は、猪山家の若き当主を演じる堺雅人の顔に貼りついたようなアルカイックスマイル。一度見たら忘れられない飛鳥仏を思わせる笑い顔です。これが藍染めの着物に袴裃を着けるとよく似合い、城勤めの侍が美しいと感じられたのは驚きでした。

 さてこの映画、70石取りの家にしてしては少し優雅過ぎる暮らしぶりと見ていたら、突然どん底の借金生活。さてこれからどうなるか、どうやって借金を返済するか、これが山場であり見所となっていきます。

 ねらいどおり借金返済の過程は面白く、盛り上がります。ところが振り返って、何故あれほどの借金生活に入ったか、こちらの理解力が乏しいせいか、とんと分からずじまい。財政難の時代、質素倹約が侍の本分とするはいいのですが、一方で昔の日本人の粋なお金の使い方や渡し方をドラマで見たいという欲求がムクムクと強く沸き上がりました。

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by arihideharu | 2010-12-15 05:08 | 映画・演劇 | Comments(0)
十三人の刺客
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 リメイク版「十三人の刺客」を見てから3週間が経ちます。その間この作品はかなりの傑作だという思いが段々と膨らんできました。

 旧作「十三人の刺客」は1963年の12月公開ですから、「忠臣蔵」のようにオールスターで描くお正月映画として作られたと思います。したがって大御所と呼ばれるベテラン俳優と中堅、そして売り出し中の若手の三者が持ち味を競い合うというのが、筋とは違う芝居の大きな流れです。その作戦は図に当たり、見終わってみると若手里見浩太朗の爽やかで美しい若侍ぶりと、ベテラン嵐寛寿郎のきりっとした佇まいの美しさ、そして中堅西村晃の怪演ぶり…。この三つが時間を経てもぼくには焼き付いています。この映画は芸の伝承と新しいスターを育てるという意味でも成功したと思われます。

 ということはこの筋立てで、最もおいしい役どころはかつて里見浩太朗が演じた島田新六郎の役ということになります。この映画は集団劇であるのと同時に若侍、島田新六郎の青春映画とも言えます。
 
 さて、リメイク版「十三人の刺客」です。ベテラン俳優は松方弘樹ひとりしかいません。かつて片岡千恵蔵と嵐寛寿郎の演じた部分を松方はひとりで背負います。クライマックスのチャンバラでは松方弘樹一世一代の最高の殺陣を見せたと思います。斬られ死んで行く躰の切れは圧巻でした。松方弘樹は間違いなく芸を伝承しました。(喝采)

 十三人のリーダー島田新左衛門は大御所の役どころですが、リメイク版では中堅の役となっています。ご存知、役所広司が演じています。1963年当時は中堅の役者といえば戦中派で西村晃や丹波哲郎のような兵隊帰りが沢山いて、得体の知れない不気味さを漂わせていました。彼等は総じて極限状態の演技が(人を殺す演技も含めて)傑出していました。そして、常に脇にいて戦前派の大物役者を食っていました。
 
 ぼくは役所広司の世代ですので、「一体何をぼくらの世代は作り伝承していくのか?」ということを映画を見ているあいだ考えていました。というのも、ぼくらの世代には時代劇における芸も戦中派のような存在感もないと思っているからです。さらに大きく危惧されることがあります。時代劇を伝承するには我々日本人の体型と生活様式が変わってしまったことです。165センチ前後の男子が刀を振り回すから美しい殺陣や所作が生まれるのですが、180センチを超える男子がゾロゾロいては刀も殺陣の形も変えるしかない事態です。この問題は近年の課題だったと思います。

 その答えをリメイク版「十三人の刺客」は実は冒頭で見せています。この映画は濃厚な切腹シーンから始まります。これを見たとき、ぼくはフイルムを裏焼きしたのかと思いました。というのも着物の襟は左前だし、それに脇差しを左手に持ち腹に突き立てていたからです。左前襟の切腹は始めて見ました。冒頭から(?)です。しかし、これは新しい時代劇を作る意思の表れと挑戦の表明であると思い直しました。流派によってはこのやり方もあったかもしれないと思ったからです。また物語の発端となる、暴君の前に現れる他家のうら若い妻女が能面のように眉を剃りお歯黒をつけ怪しい色気を放って登場します。このメイクを映画で見るのは久しぶりです。

 さらにアクションにおいても剣豪平山九十郎の殺陣は西村晃の縁日の居合い芸のような怪しさはなく、井原剛志の殺陣は古武術の型稽古のような重厚な趣がありました。そして、若侍島田新六郎を演じる山田孝之はカンフーアクションもどきではなく、見事な合気道のような柔を見せます。つまり新しい時代劇とは奇をてらった新しさを求めるのではなく、素直に温故知新をすることではないかと問うているのです。

 名作時代劇がこのところ次々にリメイクし必ずしも良い結果を得いてない中、このリメイク版「十三人の刺客」はオリジナルを超えた時代劇映画史上に残る傑作になったと思います。

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by arihideharu | 2010-10-31 01:20 | 映画・演劇 | Comments(0)