ブログトップ | ログイン
わくわく挿絵帖
sashieari.exblog.jp
<   2011年 08月 ( 4 )   > この月の画像一覧
b0185193_40468.jpg


 秋田県横手市にある実家の土蔵の二階には、古い長持がいくつかあります。今夏は数年ぶりに墓参りに帰ったおり、その一つを開けてみました。黒塗りの一番大きい見覚えのあるヤツです。おそらく、40年以上開けられたことがないと思います。

 留め金具を外しフタを両手で開け、中央に置かれた杉材のつっかえ棒を片手で立てフタを押さえます。思った通り、ホコリっぽい匂いと供に手触りで古い寝具があるのが分かります。その下には本身の刀が何振りかあるはずです。
 
 ぼくの記憶の中にある刀といえば、戦前から昭和30年ぐらいまでの我家の家族写真の中に、床の間に置かれた大小の刀が写ったものがあります。士族の家系でもない我家です、おそらく節句のときにでも飾ったと思われます。残念ながらぼくには実際の記憶がありません。ただ、土蔵の長持ちに入れてあることは良く知っていました。

 ぼくが初めて一人で刀を手にしたのは、小6か中1のころで、やはり夏だったと思います。我家の土蔵は内蔵(うちぐら)で、鞘堂がついた形です。したがって夏でも割合涼しく、特に倉庫に使われている一階は暑い盛りの昼間など一段とひんやり感じました。そこで夏休みになると人の出入りのある一階はともかく、絶対と言っていいほど人の来ることない土蔵の二階は絶好の隠れ家でした。そして、二階は照明が入っていせんでしたから鉄格子の入った窓下が特等席になりました。そこは時々マンガ本をどっさり持ち込んで読む場所でもありました。

 兼ねてから刀を探し、手にすることを長年思い浮かべていたぼくは、昼下がり土蔵の二階へ上がりました。照明がありませんから陽が当たらない所は真っ暗です。用意した懐中電灯で照らしながら長持を調べ始めました。

 少し苦労をしながらも、何竿目かに探し当てました。布に包んだ刀が手触りで分かります。ずっしりと重いその塊を持ち上げ広げると、様々な種類の刀が出てきました。その中でぼくが覚えているのは大小ペアになっている刀と皮鞘の刀、それに平打ちの短刀です。

 考えてみると、二振りの大小は床の間に飾られていた例のもので、皮鞘は軍刀で親父が陸軍から持ち帰ったもの、短刀は死者の胸に置かれる儀式用と今では想像がつき、いずれも昔の日本の生活にある程度必要とされたものと分かります。

 ぼくはこの日、夏なのに長ズボンに靴下、運動靴まで履いて、腰のベルトに刀を差しました。勿論、ズボンや靴は防備と滑り防止です。防備とは刀の刃で自分を傷つけないためです。
 
 刀は大小ペアの大を選びました。侍が持っていそうな刀に見えたからです。鯉口を切りゆっくり抜きました。思ったより簡単に抜けました。構えてみます。少し振ってみます。ちょっと錆びていますが、本物だという充実感と実物の重さの手応え、そして武器を持った怖さが両掌に汗となって出てきます。

 おそるおそる斬る真似をします。それから、慎重にゆっくりと納刀します。また、ゆっくり抜いてみます。ちょっと振り廻してみます。納刀します。何度も繰り返しました。

 ぼくにはチャンバラ小僧として棒切れから始まる長年のキャリアがあります。また数々の剣戟スターを見て来て真似た自負がありました。それが調子に乗り過ぎたもとでした。

 その時は座頭市の殺陣を頭にイメージしました。逆手斬りでこそありませんでしたが、抜く手も見せず、抜き打ちに斬り納刀するつもりでした。

「いたっ!」左手に痛みが走ります。納刀の瞬間、親指の腹に刃が入ったのが分かりました。窓から差し込む陽がむくむくと盛り上がって広がる赤黒い血を映し出します。あとは床が濡れ、拭き取ったときに生温かだったのを覚えています。

 傷は深くも浅くもない通常の範囲とかってに判断し、その時は自分だけで応急処置をして済ませました。ただ、それ以来、長持を開けることはありませんでした。

 あれから40数年、あの刀と再会したくなりました。どんな刀だったか確認しようと思ったからです。

 手探りで大小二振りを取り出しました。「あら!」あの床の間に飾られた大小のペアだと分かります。何とも、簡単に出て来たものです。

 あの日以来、誰もこの長持ちを開けていないとなると一番手に取り易いところにあるのは当たり前のことでした。

 刀は黒鞘で、柄糸は何色か分からない黒っぽい色です。ぼくは大刀の柄を握りました。目釘がずれていて掌にあたります。「あっ」あの昼下がりの感覚が呼び覚まされました。この柄を少し強く握るとき、右掌に目釘があたり痛いのです。紛れもなくあの時の刀です。

 よく見ると柄が、ぼくの持つ居合い刀より一寸ばかり長いようです。抜いてみます。恐ろしく細身に作られ、かなり短めです。おそらく2尺2寸というところです。しかも樋が入っています。なるほど軽い訳です。これなら子供でも扱えます。ぼくは構え、軽く二三度振り下ろしてみました。「ヒュッ、ヒュッ」なかなか良い樋鳴りがします。

 最後に少し強めに振り下ろしたとき、風の通らない土蔵の二階に不穏な空気が満ちてきたように感じました。そして同時に「もう止めとけ」という声が聞こえた気がしました。

 多分、この家に棲む死んだ親父たちの声だったと思います。勿論、ぼくはすぐに止め埃っぽい土蔵の二階を後にしました。

b0185193_413348.jpg

by arihideharu | 2011-08-30 04:19 | 思い出 | Comments(0)
二人のエース
b0185193_13311899.jpg


 ぼくが時代小説を一番盛んに読んでいたのは20代から30代です。すごい勢いで読んでいましたから、その頃住んでいた国立には大きな本屋が2軒あったにもかかわらず段々と読む本がなくなり、ある時期から新しく入る本(新刊本)を待って買うというサイクルになりました。といってもぼくの買う本は基本文庫だけですから、今から考えると大した量ではなかったと分かります。

 その待って買う本の中には二人のエースがいました。勿論、藤沢周平と池波正太郎です。

 ぼくはすでに相当の山本周五郎ファンになっていましたから、「山本周五郎の後継者」と呼ばれた藤沢周平の出現は日照りに慈雨のようなもので、デビュー作の「暗殺の年輪」から新しい本が一冊一冊と増えていくのが楽しみでしかたありませんでした。

 他方、池波正太郎はすでに「鬼平犯科帳」「仕掛人・藤枝梅安」「剣客商売」の人気シリーズが正に進行中で、飲み助にとっての冷蔵庫にたっぷり入ったビールのような存在で、グイッとやるのがたまりませんでした。

 ところがその新刊本も読み終わると、シリーズものなどは特に続きが読みたくて仕方なくなります。「鬼平」や「剣客商売」あるいは平岩弓枝の「御宿かわせみ」や「はやぶさ新八」などです。そこでぼくは本になるのが待ちきれず、それらがを連載している小説誌の存在に目を向けることになります。

 これが小説誌を読み始めたきっかけであり、はたまたぼくが小説誌の挿絵を描きたい、挿絵画家になりたいと思ったきっかけにもなった訳です。それに、挿絵が載るようになったら月に何冊も買っていた小説誌を買わずにすむと思ったのも事実です。

 話しを藤沢周平と池波正太郎の二人のエースに戻します。両者とも本領が江戸を扱う時代小説ですが、大きな違いがありました。

 藤沢周平の作品に出てくる人々は多くは貧しく、己の誇りとか品格すら常に危く、あるいはそのバランスを取ることさえ諦めてしまうほど、むき出しで生きている底辺の人々でした。これは特に初期作品に顕著で、読んでいると気が滅入るほどでした。これは特に初期作品に顕著で、読んでいると気が滅入るほどでした。しかし、ぼくはこの暗い初期作品が好きでした。暗ければ暗いほど好きでしたし、魅力的でした。

 何故なら、ノックダウンをくらったボクサーが、おぼつかない足取りで両腕を持ち上げバランスを取りながら立ち上がろうとする姿は、ダウンしたダメージが大きければ大きいほど美しくみえます。藤沢周平の作品はこの構造で、より傷ついている主人公が小説の魅力に繋がっていたからです。

 一方、池波正太郎の小説の主人公たちは反対にお金をかなり持っています。「剣客商売」の秋山小兵衛はかなりコスく金を稼いでいます。梅安にいたっては人を殺めて金を貯め込んでいます。また鬼平は権力者の側ですから勿論のことです。

 池波正太郎の小説の魅力は、ここにあります。つまり、主人公たちはちょっとした小金持ちで、そして、その金を使う姿を見せることによって江戸の「いき」とか「野暮」が透けてみえてくる仕掛けです。何ともうらやましい生き方がそこにはありました。

 若いときのぼくはこの二人の作品を読むことは生きる糧でした。
b0185193_1332334.jpg

by arihideharu | 2011-08-22 13:49 | 読書 | Comments(0)
「ひまわり」
b0185193_14636.jpg


 確信は持てませんが、映画監督の伊藤大輔のエピソードだったと思います。

 若い時分、縁日の夜をそぞろ歩いていると、アセチレン灯の下で変わった絵が目に飛び込んできます。粗末な紙に印刷された、ゴッホの「ひまわり」でした。初めて見るその絵は、美術に並々ならぬ関心があった伊藤青年を釘付けにします。彼は貴重なお金をはたいて、その絵をもとめました。

 そして自分の部屋にその「ひまわり」を貼り、眺め暮らしました彼は、これをきっかけにすっかりゴッホファンになります。

 その後、美術愛好家の伊藤大輔は、映画監督として数々の名作を作り一時代を築きます。しかし、多くの名作が戦災などで残っていないことでも有名で、彼の作品と彼自身は日本映画界の伝説となりました。

 戦後、日本が経済復興したころ、ゴッホの展覧会が開催されます。彼は見に行きました。あの「ひまわり」が目玉作品の一つとして来ていました。

 彼は行列の中で「ひまわり」を鑑賞しました。ところが彼は小首をひとつ傾げます。確かにこの「ひまわり」はすばらしい作品には違いないが、もう一つ感動が足りません。彼には貧しい部屋に貼って鑑賞した粗悪な印刷の「ひまわり」の方がはるかに輝いた本物のゴッホの「ひまわり」に思えたからです。

 このエピソードは「美」の本質を表しています。ゴッホの美は伊藤大輔にはアセチレン灯の下で見つけた紙に複製された「ひまわり」に現れたのです。つまり「美」の本質は「もの」にあるのではなく「こと」にあるのです。

 学生時代です。映画本でこのエピソードをしこんだばかりだったと思います。友達のアパートで4・5人で飲んでいたときこれを披露しました。

 すると、その中の一人がすぐに「その男はゴッホを理解していない。実物のゴッホの絵の方が美しいに決まっているではないか!」と言い出しました。彼の主張は、生の油絵の発色やボリュームまたはマチエールを見ずに語るのは絵画を分かっていない。そもそも印刷された「ひまわり」と実物の「ひまわり」を比べることさえナンセンスだと言うのです。そして、伊藤某は美術を語る審美眼のない輩であると言うのです。お察しのように彼は画学生であり熱烈なゴッホファンでした。

 彼とぼくは互い頑固者で主張は平行線となり、つかみ合いの喧嘩になりそうな険悪な飲み会になってしまいました。

 久々にこのことを思い出したのは訳があります。テレビで小林秀雄の評伝を偶然見たからです。

 その中で、小林秀雄が「ゴッホの手紙」をものにしたとき、彼は実物のゴッホに触れたことはほとんどなく、程度の良い複製画を鑑賞しながら執筆したこと。そして数年後、アムステルダムのゴッホ美術館で初めてオリジナルを見たとき、咄嗟に「複製のほうが良い」と思ったことが語られていたからです。

 彼もまた複製画を見ながら耽溺し。そして、同じように実物を見て小首を傾げたのでした。

 やはり「美」とは幻の別名かと思えるのです。

b0185193_1464922.jpg

by arihideharu | 2011-08-15 02:33 | 挿絵 | Comments(0)
少女漫画
b0185193_20274313.jpg


  かつて漫画の中心が貸本屋にあったとき、足元から天井までぎっしり置かれていた本は、ぼくの中で2種類に分かれていたと前に書きました。すなわち手塚治虫と白土三平のグループです。前者は現代と未来に題材をとり、後者は過去にそれを求めました。実はもう一つジャンルがありました。

 それは少女漫画です。

 これはぼくが一冊も手を付けたことのない分野です。

 巷間、少女漫画は手塚治虫の「リボンの騎士」から始まると云われています。それはかなり正確と思われます。というのはぼくは「リボンの騎士」でさえ途中で読むのを放棄したからです。

 少年時代のぼくにとって、自分と置き換えることの出来ない物語は手に取るに値しなかったのです。そして何より少女漫画の描き手は少年漫画の描き手より、絵が下手に見えたのが致命的でした。
 
 その後、少女漫画は大いなる進化をとげます。さらに睫毛は伸び、瞳は益々輝きを増し、そして手足の長いあの奇妙なプロポーションを手に入れます。

 もっとも、この人体表現の奇妙さは黎明期から少女漫画はもっていました。それはデッサン力の甘さが大きく関わっていたとぼくは考えています。

 そして、このデッサン力の甘さはその後の少年漫画にも言えることでした。圧倒的トレーニングのあとが見えるアメリカンコミックと違うところです。

 ただ、これらの少女漫画の特徴が記号化され量産化される過程で、近年のアニメでは少年漫画の世界観と融合し、不思議なSF世界を産み出したのは、ぼくにとってはかなりの想定外でした。
 
 何故なら、竹久夢二や中原淳一が描いた睫毛が長く、大きな瞳を持った大正・昭和のメランコリックな美少女たちが、剣を持った半裸の女戦士に進化したのですから。

 いや待てよ!「リボンの騎士」とどこが違うんだ!

b0185193_20341354.jpg

by arihideharu | 2011-08-03 20:25 | 挿絵 | Comments(0)