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わくわく挿絵帖
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もうすぐお正月
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 挿し絵画家は仕事をしている限り、日常にいる時間より絵や物語の中にいる時間の方が長くなります。するとどんなことが起きるかというと…。ぼくの場合は時代小説中心です。特徴として現代を描くよりはるかに季節感が重要な要素としてあるので、春夏秋冬を現実よりフィクションの中で味わうということになります。

 また今は大晦(おおつごもり)からお正月の頃ですが、ぼくの住む出版の世界では多くは二三ヶ月先を行きますから、早春の時期が過ぎ春爛漫を迎えようとしています。ですからぼくは散歩をしながら、冬を感じつつもウグイスや梅あるいは桜のことを思い描きながら歩くことになります。

 江戸人は広重の「江戸名所百景」などを見ても分かるように、今と比べようもないほど律儀に季節の行事をしています。その中でもひときわ目を引くのは、鯉幟と七夕飾りの壮観さです。一斉に江戸の空を飾り、風に踊っています。

 その他にも、衣替えから虫干し、すす払いといった細々としたことから、遊興・信心に関することまで様々あって、貴賎を問わず参加した様子が落語などからも伺えます。

 おそらく、今の世の中で季節感があって儀式をともなうイベントは、お正月ぐらいかもしれないと東京にいると思います。

 そんなお正月が直ぐそこまで来ています。

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by arihideharu | 2011-12-31 06:53 | 暮らし | Comments(0)
謎の画家 小倉柳村
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 明治になって十数年経ったころ、小倉柳村という風景木版画家が登場します。徳川の世が続いていたら浮世絵師の範疇に入る画家です。

 美術史を覗いていると、極めて少数の作品しか現存しないに関わらず、歴史に名を留めている絵描きを見つけることがあります。彼等は多くの場合「謎の画家」と呼ばれます。絵以外に記録がないことが多いからです。その理由としては短命であったとか、売れなくて早々に止めてしまったとか色々考えられます。いずれにしろ残った少数の作品がどれもが圧倒的に良質であることとユニークであることが前提となる呼称です。

 メジャーな例としては、近年人気のフェルメールや写楽などがいます。しかしこの小倉柳村は謎の画家に違いありませんが、そんな輝かしい存在ではなく、あくまでひっそりしています。というのも記録に残る彼の活動期間は明治十三年から十四年までの二年で、その間九枚の錦絵を残したのですが、出来のいいのが「湯島之景」というタイトルの一枚だけだと言っていいからです。もしこの絵がなかったら埋もれたままと考えられます。それほどこの一枚だけはすこぶる名画なのです。尤も、ぼくが見たのは九枚中六枚だけなので、この断定は少々早まった表現かもしれません。

 柳村をぼくが始めて見てから三十年と経ってないと思います。明治を代表する風景浮世絵師「小林清親」を紹介した画集で見たか、あるいは歴史資料の中で見たと思われます。文明開化のこの時代、北斎・広重よって確立された風景錦絵は西洋画の手法を取り入れ変貌します。すなわち総てのものに陰影を描く試みを始めます。実行したのは明治元年に二十歳だった小林清親です。これによって木版画は石版画のような色合いと奥行きあるいは空気感を持ちます。江戸期の錦絵と違う点はそれだけではありません。陰影をより強調するために、夕方から夜の風景の割合が極端に多くなります。レンブラントやジョルジュ・ド・ラ・トゥールがとった方法論です。つまり光と闇の対比です。といっても漆黒の闇ではなく、仄暗い闇です。そんな夕闇の錦絵を描く一人に小倉柳村がいました。大体は小林清親の付録的扱いで紹介されることが多く、ぼくの認識もある時期まで似たようなものでした。

 それが、今住む小平市に引っ越したばかりの二十年ほど前、近所を車で散策していたとき、偶然見つけた「東京ガス資料館」という煉瓦造りの建物の中で、小倉柳村のオリジナルに初めて出会ったのです。

 この資料館は文明開化の象徴であるガス灯から始まる、ガスにまつわる歴史を珍しい蒐集品をまじえて紹介する博物館で、その一角にかなり充実した明治期の錦絵コレクションがあったのです。

 あれほど多くの錦絵を一同に見るのは初めてだったかもしれません。しかも未見のものが多く驚きました。その多くは三代広重はじめ歌川派の絵で占められ、明治らしい底抜けに明るい風景が洋館やガス灯、馬車・人力車、汽車・蒸気船などとともに描かれています。そして、ふんだんに使われた鮮やかな赤と藍の絵の具、初期の錦絵の色味とは雲泥の差です。それに見事なグラデーション…。まさに錦絵の完成期です。「ブラボー!」ぼくは思わず拍手を送りたくなりました。

 やがて階段を上り新しい階に入りました。それまでとは異質な一角があります。暗く沈んだ色合いの小林清親一派の作品群です。本物を見るのは初めてでした。

「なるほど…、これは新しい」と思いました。さっき拍手をしたくなった歌川派の連中はモチーフこそ文明開化ですが、絵そのものは江戸時代の延長線上にあります。しかし小林清親に至っては明らかに近代に突入しています。あの時代、彼のみが決然と新しい錦絵を拓くべく作画を試み呻吟したように見えます。多くの試行錯誤の跡がそれを証明しています。その勇気に感服するしかありません。
 
 小林清親が描く夕闇画は、それまでの錦絵と違う点は陰影をつけたという技術的点だけではありません。絵に新たに情感という回路を意識的に付け加えたようとしたふしがあります。というのは、夕闇は見る者に妙な気持ちを呼び覚ます装置なようなところがあって…、例えば郷愁とか哀切です。彼はある時期から意識的に夕闇を描くことによって、心の奥底に誰もが持っている、あるいは欲している何かを表現しようとしたのではと思うのです。おそらく、この心の中にある何かを表現することが小林清親にとっての近代だったと思うのです。

 しかし、小林清親の試みは必ずしもうまくいったわけてはありませんでした。悪戦苦闘の連続だったと思います。何しろ新しい錦絵を作ろうとしたのですから…。例えば影のつけ方を上手くやらないと絵全体が汚れて見えること、また上手くいったとしても今度は絵自体が日本の風景でなくなってしまうことなどです。それに技術的に克服しなければならない問題もあったことでしょう。パイオニアというものは大変です。

 そこに小倉柳村が登場します。彼は清親の方法論を踏襲します。決して上手い絵描きではありませんでした。というより素人くさい絵です。ところが一枚だけ清親以上に成功した絵が完成します。それが「湯島之景」です。
  
 小倉柳村は謎の絵描きです。小林清親の弟子であるのかも分かっていません。その日「東京ガス資料館」で多数の錦絵を個々に感動を覚えながら見てきたつもりだったのですが、家に帰って思いを巡らすと記憶に焼きついているのは小倉柳村の「湯島之景」だけでした。

 絵は真夜中の風景です。雲の合間から満月が見えます。手前は湯島の高台。そこに二軒の連れ込み宿の障子明かりに照らされて、印半纏の職人と黒衣の神父が、後ろ向きに並んで静かに立っています。眼下には上野神田界隈の町並みが江戸時代と変わらぬ姿を見せています。

 このくすんだ鶯色で縁取りされた絵には、不思議な磁場のようなものがあります。というのも見る度に、この絵に吸い込まれそうになるからです。

 若い絵描きは、たった1枚でも会心の絵が出来たらその場で死んでもいいと思うものです。小倉柳村はなんと幸福な男でしょう。いわば、一枚の絵の記憶しか何も残してはいないのですから。

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by arihideharu | 2011-12-22 04:10 | | Comments(0)
「赤ひげ」における帯締め
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 黒澤明の映画「赤ひげ」でドラマ前半で内藤洋子演じる武家の娘が加山雄三演じる青年医師を小石川養生所に訪ねるシーンがあります。若き内藤洋子が可憐に演じているアレです。髷はきりっと島田に結い、帯も文庫に結んでいます。そしてその帯には白く太い丸ぐけの帯締めが結ばれています。

 実はこれは結構重要なことあるいは事件とぼくは思っています。それは時代考証にうるさかったと思われている黒澤明がこれを許しているからです。これとは帯の上から結ぶ帯締めのことです。

 というのは江戸時代は帯締めはしないというのが基本だからです。それは多くの錦絵を見ても分かります。帯締めをしている絵を探すのは相当骨が折れます。ないわけではありません。まれに幕末期の芝居絵や大奥をテーマにしたものに丸ぐけの帯締めをしたものがあります。一般の女性の中にそれを見つけるのはさらに大変になります。ただ、明治まで数年を残した幕末を撮った写真を見ると組み紐の帯締めをした女性がちらほら見つかります。

 時代考証家で映画にもたずさわった林美一さんの「時代風俗考証事典」を見ると、嘉永以前に帯締めの資料はないそうで、鞍馬天狗や新撰組の映画ならともかくそれ以前の時代設定では許されないと書かれています。また嘉永以降でも大奥の御殿女中に限られるようだとも書かれています。

 とすると帯締めの使用は、幕末の嘉永以降の時代設定だとしても間違いということになります。

「赤ひげ」における帯締めの使用は内藤洋子が演じる武家の娘だけではありません。香川京子が演じる狂女も歌舞伎の八百屋お七のように、振袖の着物に帯をふりわけにしてその上に太い帯締めをしっかり結んでいます。また内藤洋子の母親役の田中絹代は上等そうな帯の上に白い帯締めをきりっと結び、こちらは明治の上流婦人のようです。

 これはどうも確信犯的に江戸時代がもうすぐ終わることを感じさせるための演出ではないかと思えてきます。

 というのも映画の冒頭で加山雄三演じる青年医師に長崎帰りを映像で表現するため舶来らしきマントを着せていますが、それと帯締めは呼応しているのではと思えるからです。

 しかし一方では林美一さんが「鞍馬天狗や新撰組の映画ならともかく」と指摘しているとおり、戦前の鞍馬天狗のスチール写真をみると武家娘が太い丸ぐけの帯締めをしているのが定番のように出て来ますから、黒澤明の独創では勿論ありません。

 林美一さんが「時代風俗考証事典」を書かれたのが三十年以上前ですが、その当時すでに時代設定に関係なく帯締めをやたらとするようになって困ると書いていて、今に始まったわけではないのが分かります。

 ぼくが映画「赤ひげ」における帯締めをとりわけ問題にするのは、黒澤映画で帯締めを許したのがこの事態を助長したのではと睨んでいるからです。買いかぶりでしょうか?

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by arihideharu | 2011-12-11 19:51 | 映画・演劇 | Comments(0)
写生
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 人によっては一、二歳から自分の記憶が鮮明な方もいるようですが、ぼくはボーと育ったらしく、幼児時代の記憶はそれはどなく、小学校の二、三年になってからやっと過去の自分の姿が浮かび上がってきます。

 その頃ぼくは三つ上の兄と日曜日に絵を習いに行っていました。教えていたのは通っていた小学校の担任の先生でした。そして習った場所はその先生の自宅で、といっても立派な家があったわけではなく、歩いて十分ほどの酒屋の二階の一室で奥さんと赤ちゃんとで間借りをしていました。行くとまだ朝食が終わってないときもあり、いつも大わらわで片付けて、さっきまでご飯を食べていた卓袱台の上に急拵えのモチーフを置いて、クレヨンや水彩で写生をしました。

 この先生の教えは一貫しており、この一室でも学校の教室でも、とにかく写生をすることがすべての基本ということでした。ですから図工の時間は天気がいいと大概は外へ画板を持って出かけました。

 先生が写生にこだわったのには訳があります。それは戦前の美術教育が、与えられた手本を忠実に写す事だけに終始し優劣を決めていたことへの強烈な批判があったためです。おそらく自分の創意とか工夫が否定された思いがあったのでしょう。

 ぼくは四年生まで担任をして戴きました。その間、授業中の無駄話は戦争中の話しが多かったと思います。彼は終戦まで海軍で飛行機乗りの訓練をしていたらしく、角兵衛獅子の小僧のようなきつい目にあったことや常に死ぬことを意識しながら生きていたことを事細かく話していました。といってもその当時の理解力では十分の一も分かっていなかったと思うのですが、彼の無念さだけは伝わりました。

 時には教室で人物画も沢山描きました。そのとき注意されたことがあります。「マンガのマネはするな!」です。言うまでもなく戦前の「のらくろ」から日本人の子供文化には漫画がありました。また彼自身も昼休みには生徒が持ってきた漫画雑誌を借りて眉間にシワを寄せて読んでいる男でしたが、写生に漫画のタッチが混じることだけは嫌いました。

 写生とは自然をありのままに自分の目と躰を通し描くことですから当然の教えでした。
 
 やがて高校生になって油絵を始め、青木繁や岸田劉生あるいは関根正二や村山槐多の写生を知り、彼の言っていた意味が分かるような気がしました。それは人の命が短かった時代、「生」を「写す」とは生きる喜びそのものだったということです。

 ただ大学に入り周りの友達の誰もが鉄腕アトムやミッキーマウスなど、そらで上手に描ける漫画キャラクターを幾つも持っているのに、ぼくは満足に描ける物が何にも持っていないことに自分でも驚いたことがあります。これはこの先生の教えの功罪だと思っています。しかし彼はぼくのまぎれない恩師です。

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by arihideharu | 2011-12-02 21:26 | 挿絵 | Comments(0)