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わくわく挿絵帖
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仇討
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 どうも、映画『96時間 リベンジ』を観てから気持ち悪さが続き、その正体を考えているうち、殺人や仇討のことを考え始め、最後には死刑廃止論のようなものにたどり着いてしまいました。また、その過程でいやな臭いが消えず、これを書いてしまわないと臭いが消えないように思い、少し書いてみます。

 「やられたら、やり返す」というのは、人の感情としても社会的道理としても、ごく自然なことで、人殺しは死をもって罪をあがなうことは古今東西普通に行われていたと思われます。
 また、ぼくが時代小説を読み始めたころの筋立てには「やられたら、やり返す」いわゆる仇討ものが今より割合が大分多っかたと記憶します。言うまでもなく仇討は武家社会の合法的私刑です。
 戦乱をくぐった侍の心得としては、なん時も自らは刀を抜かないのが最上の策ですが、そのためには相手に刀を抜かせない工夫が必要です。すなわち、武芸の鍛錬を怠らず、いつでも戦いの備えをして、世間にあいつは強いぞという雰囲気をそれとなく醸しておく。つまり抑止力です。
 しかし、大概の侍は腕以上の刀をもち、つまらないことでカッとしてそばにある刀を抜いて、気がつくと大切な隣人を殺している。これが小説に出てくる仇討ものの発端の多くです。
 そのため、仇討は友人知人を討つことになり双方とも多大なダメージを受け悲劇を生む結果となります。
 武士の面目だ、義のためだといいながら、実際は今とさほど変わらず色や欲、嫉妬やつまらいプライドが主な原因でしょうから、討つ方も討たれる方も後味の悪さがだけが残ったことでしょう。
 さらに警察制度が整っていない時代、仇討は残った縁者がカタキを捜し討つというのが定法ですから、10年20年とカタキを求めているうちに、恨みがいっそう深くなることもあったでしょうが、馬鹿馬鹿しくなる者も多かったと思われますし、いずれにしろ心身とも疲弊します。
 また、討たれる方もなんのための一生と、自問自答しながら逃げ続ける人生に暗たんとしていたに違いありません。
 もし、仇討が倫理的に正しいというなら、それは唯一、カタキとされる者が背負った罪の苦しみを断ってやる、武士の情け以外にないと思われます。つまり、命を断ってやることで苦悩から救ってやる慈悲です。
 遡ると、近世の仇討は陣中の喧嘩両成敗が影響いているらしく、戦場では味方の兵隊同士、殺した方も殺された方も両方悪いとう理屈です。しかも面白いことに、仇討は決闘法式で行われ、勝った方が正義を勝ち取るという強引なやり方です。ただ討つがわは、不意を突くことも助太刀を用意することも可能ですから、仇討が成就することが自然多くなります。勿論、返り討ちも大いに可能ですから、腕にものいわせ己の正義を立証することも出来ます。その場合、新たな仇討は幕府は認めなかったようで、以後は喧嘩の類とされたようです。

 「リベンジ」イコール仇討を近代的に合法化したものが死刑制度とするなら、死刑制度は「やられたら、やり返す」を認める体系になります。それを国家間に置き換えると、とりもなおさず戦争を肯定する理屈にたどり着きます。

 おそらく、映画『96時間 リベンジ』が後味が悪く感じられたのはこれと関係しているような気がします。つまり、殺しの連鎖です。

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by arihideharu | 2013-02-25 20:40 | 映画・演劇 | Comments(0)
バチあたり
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 確かディック・フランシスが小説の中で、殺し屋という職業が成立しにくい理由を二つ上げていたと思います。ひとつ目はこの職業の存在が広報しにくいこと、ふたつ目は人を殺す行為自体相当のストレスで、それに耐え続ける人材がなかなか存在しないことだったと思います。
 また、つい最近読んだニュースに、米国における近年の戦争で、帰還兵の自殺者数のほうが戦死者より多いという記事を読みました。これは人間の神経が人を殺すことは勿論、その現場に立ち合うことすら耐え難いことを表しています。
  江戸期、斬首を役人の替わりに代々請け負った、有名な山田朝右衛門一族は日々悪霊に悩まされていたといいます。そこで、大名並みの立派な仏壇をそなえ供養や信心に励んだそうです。
 以上は職業的クールな人殺しの例ですが、日常的にあるそれは、色や欲、妬みや嫉みがいっとき血をのぼらせ、分別をなくすのが主な原因でしょうから、あとからくる罪悪感とやらがさらに堪え難いに違いありません。
 おそらく、バチがあたるとはこれらのことを呼ぶのでしょう。
by arihideharu | 2013-02-19 05:53 | 暮らし | Comments(0)
「ハードボイルドじゃないぜ」映画『96時間 リベンジ』
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 活劇は黎明期から映画の華で、ヒーローがどんな敵でも何人いようと、ばったばったと格好良く倒すのが、観るものをすかっとさせ映画の人気を支えてきました。
 伝説のチャンバラ映画『雄呂血』は無数の敵をたった一人で打ち負かす殺陣が見所になり、座頭市やマカロニウエスタンは瞬時に多数の敵を倒すのが見所となりました。
 いずれにしろ活劇は人殺しを見せ物化するわけですから、そこには暗黙のルールがあったと思います。それは殺される方に過度の人格や人生を背負わせないという決まりです。多数の敵を倒す場合はなおさらです。死んでいく敵は切られたワラ束や撃ち抜かれた空き缶と等価という前提があるから活劇は成立するのです。でないと歓声は悲鳴に変わることになるからです。

 ところが映画『96時間 リベンジ』はこのルールを破るという暴挙にでます。
 シリーズ1作目の『96時間』は小気味いいアクション映画の快作でした。ストーリーは、年頃の愛娘が旅先のパリで人身売買組織に誘拐されるのが発端で、それをとうが立った元CIA工作員の父親が、たったひとりでのり込み救い出すというものでした。この一見疲れた顔のオヤジ、おそろしく強く、ほぼ無傷で1対多数の戦いを制します。いわばサイレント時代からある、恰好よく人殺しを見せる、おとぎ話のような活劇スタイルです。
 そして本作『96時間 リベンジ』は、前作で倒された極悪非道の悪人たちにも恋人や親兄弟がいて、彼らはリベンジすなわち仇討ちを企てます。それを今回も短時間に、例のオヤジが圧倒的無敵ぶりで返り討ちにするという筋立てです。
 ここで問題が起きます。映画の冒頭で前作で死んでいった者たちの葬式シーンを『ゴッドファーザー』のようなドキュメンタリーな映像で見せたことです。当然、観客は今度の活劇は悲劇の末路を予感したはずです。なぜなら、死んでいくものがワラ束や空き缶と等価ではないという前提を与えたからです。
 しかしながらこの映画、最後まで徹底したB級ぶりを崩しません。すなわち、何の憐憫もみせずに1対多数の戦いを圧倒的強さで今回も制して終わるのです。
 これで観客は能天気な活劇を観ているというより、無差別殺人の現場を見ているような気持ちの悪さを覚えます。
 
 椿三十郎は人を斬ったあとは、おそろしく不機嫌になり、ブルース・リーは残心の中、虚空をみつめ悲しい雄叫びを上げます。それは彼らなりの弔いの儀式だったと思います。
 映画の作法として、死んでいく者に人格を持たせたならそれ相応の礼儀というものがあるはずです。
 「これじゃちっともハードボイルドじゃないぜ」ということです。
by arihideharu | 2013-02-10 05:51 | 映画・演劇 | Comments(0)