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わくわく挿絵帖
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映画『クラウド アトラス』
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 大概の映画はストーリーを訊かれて困ることはありません。「ブルース・ウイルス主演のアクション映画で…」と切り出せば多くの人は絵をうかべるでしょうし、舞台設定をいうだけで、話しの結末まで言い当てる人もいるかもしれないからです。ところがウオシャウスキー兄弟の最新作『クラウド アトラス』はその点大いに困ります。
 何故なら、トム・ハンクスが出るSF映画と言われても想像しにくいし、舞台設定を訊かれても、そもそもひとつではなく、時代が違う別々の物語がバラバラにコラージュのように展開しているので、これを整理して説明するのがむずかしいからです。
 
 そんな理由もあって冒頭の5分、観客は何がなんだか分からない混乱の中に置かれます。ところがこの映像感覚が何かに似ているのに気がつきます。それは多くの人が死を覚悟したとき、異口同音に例える「走馬燈のように自分の一生が脳裏にうかぶ」という、あの感覚です。そう、断末魔の感覚です。
 しかしながら、この不思議な映像も見慣れてくると筋が見え始め、6つの時代設定の違う物語が同時並列的に進行していることが分ってきます。そして、大きな共通項も見え始めます。
 ひとつは、各時代の主人公が生死に関わる危機な状況下にあること。そして、いまひとつは総ての物語の主要キャストがメイクアップと衣装をかえて、重複した少数の役者で演じられていることです。いわば、歌舞伎のように早変わりで因縁因果の物語を演じる形式です。 

 ウオシャウスキー兄弟作品の特徴は『マトリックス』でも見られるように、いま自分がいる世界は、誰かの夢かもしれないという感覚が、全体をおおっていることです。自分の存在あるいはこの世に「ゆらぎ」を見ているのです。
 それは、この世に絶対的価値をおく「危うさ」を察知してしまった者たちの群れが、自分の親や兄弟あるいは祖国さえフェイクではないかと疑い出し、迷宮の中に入ってしまった軌跡が映画『マトリックス』なら、『クラウド アトラス』は迷宮に入りながらも戸惑いはうすらぎ、ついに迷宮を俯瞰する眼を身につけた者たちの群像劇です。しかもこの眼は複眼で、この世は幾重にもなる多元的存在に写っているのです。つまり輪廻転生を目視するに至っているのです。

 多分、日本人の多くは『クラウド アトラス』から手塚治虫の『火の鳥』を連想し、『火の鳥』を映画化するなら、この方法があったかと膝をうったと思います。すなわち、Ⅰ話2話と長編を連作する形ではなく、総ての時代の物語を並列進行させるこの遣り方です。
 そしておそらく、日本の映画監督やアニメ作家は「またやられた」感に襲われたのではないかと想像します。
 しかもこの映画は、東洋的世界観を大げさに語らず、むしろこの世の不可解さに理由を求めないさりげなさは『ライフ・オブ・パイ』といい勝負で、これがこの映画の美点で大傑作になった理由と思われます。
by arihideharu | 2013-03-30 23:00 | 映画・演劇 | Comments(0)
ファミレスで一杯
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 多分ぼくは一年のうち100日は昼食をファミレスでとっています。ただ、数年前にバーミアンがステーキガストに変わってから、近くのファミレスはロイヤルホストとサイゼリアだけになってしまい寂しく思っています。さすがに昼飯にステーキにビールは無理なのでステーキガストはカウントされません。
 それがあって、時々バーミアンのメニューが無性に恋しくなることがあります。
 10日ほど前、自転車で遠出したおりバーミアンが目に入り、上海風黒酢の酢豚でレモンサワーを一杯、麻辣坦々麺でさらに一杯やってしまいました。
 また日頃行く、ロイホやサイゼリアも昼食以外に仕事をするのが目的ですから自然長居が常で、ウエイトレスのおばちゃんたちと顔馴染みです。
 ぼくの場合酒が弱いくせに、そこでは赤ワインを一杯飲みます。また、散歩日和になると片道35分の国分寺駅ビルにある居酒屋でハイボールで定食をとります。
 するとたちまち顔が赤くなりますが、58歳秋田県人は気にしません。
by arihideharu | 2013-03-16 16:16 | 暮らし | Comments(0)
見習い同心2
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 そんな幕臣の少年たちのことをぼんやり考え散歩をしていたらiPodに岡本綺堂の小説「半七捕物帳」がいくつか入っているのを思い出しました。早速聞き始めた一編は『朝顔屋敷』です。
 話しはこうです。13歳になる850石の旗本の跡取り息子が年に1度の素読吟味当日、試験会場に向かう道でこつ然と姿を消します。これは神隠しにあったものか、ただならぬ事態と当家の用人が、奉行所の役人をとおし半七に捜査を依頼します。すると半七、たいして苦労する様子もなく見つけ出すのです。
 さて、神隠しのカラクリです。この惣領息子、力弥もかくやという美形でかつ頭脳明晰ですが、いたって文弱のたちです。これを日頃から心配していた母親が、我が子が軽輩の倅どもからリンチを受けそうだと聞きつけます。しかも決行は素読吟味の日と予告されています。思いあまったあげくこの母親、主に内緒で屋敷内の押入に息子を隠したのでした。
 手品のタネが分かればあっけない話しです。ただその後、これを手伝った家来はお手討ちにあい、母親は離縁されます。
  
 素読吟味とは寛政期以降、幕臣の子弟たちの検定試験で、これに受かると学力十分と公に認められ、晴れて元服をし、長子は出仕の準備が整い、次男以下は養子の口を待つことが出来るという、きわめて大事なものです。ただ当日、昌平坂には少年たちが数百と集まるため、頑是ない騒動がしばしばあったのでした。
 
 この話しの眼目は、浅知恵に走った愚かな母親にまつわる奇談ではなく、素読吟味から落ちこぼれた御家人の倅が、高禄のひ弱そうな倅を集団でイジメる悪習が幕末にあったことが窺えることです。
 素読試験は年1回で、受験は3度まで許されたようですが、受からないと一人前とみなされない訳ですから厳しいものです。
 おそらく、イジメに走る御家人の倅には、3度目の試験も望み薄な、とうの立った少年もいたことでしょう。それでなくとも、幕末の御家人は貧乏と風紀の悪さが世間に定着し八方ふさがりの身分、このエピソードもそのひとつというべきかもしれません。

 その点、町方同心は不浄役人といわれながらも、実入りのイイほうで、特に出世コースの廻り方同心となると、大名旗本大店からと定期的に扶持が入り、人がうらやむほど内福であったたよし。
 三田村鳶魚は著書の中で、廻り方同心になるまでに12、3歳で奉行所へ見習いに出て、30年あるいは40年、雨の日も風の日も日照りの暑さの中も怠らず背中にヒビをきらして勤め、その中で手柄を立てた優れた者だけがこの役に就けたといっています。
 おそらく『半七捕物帳 朝顔屋敷』のストーリーと考え合わせると、12、3歳で見習いに出る同心の倅は早くに素読吟味に合格し文武に秀でた俊英で、平均的見習いの初出仕は数年後と考えられます。そうなると、月代を剃ってもそれほどいたいげな感じはせず、ニキビ顔がすがすがしく感じられたかもしれません。
 三田村鳶魚がいいたかったのは、手柄をたてつつ辛抱強く勤め上げた、双六のあがりが廻り方同心という意味だけでなく、入ったときから優秀でないとなれないよということだったかもしれません。
 つまり、12歳で見習い同心になった少年は、失敗の許されないエリートだったと想像します。

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by arihideharu | 2013-03-10 01:48 | 読書 | Comments(0)
見習い同心
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 時代考証本を必要なときだけ拾い読みするのが言わばぼくの仕事なので、一向に深みのない読み方になっているのは日々自覚しているところです。また、挿し絵は姿形だけ調べ出せばすむことなので、それを言い訳にしているのも事実です。そんな中で、拾い読み程度では分からないことが時々出てきます。
 例えば、江戸町奉行所に見習い同心というのが相当数いました。ところがこの連中の形が見えません。彼らは12、3歳から見習いとして出仕したといいます。現代の年齢に直すと10歳から12歳の少年たちです。
 町奉行所の役人は専門性が高いので、商家の丁稚奉公のように鍛え上げないと務まらないというのが理由です。ただ丁稚奉公とは大きな違いがあります。それは一人ひとりが同心の跡取り息子というところです。
 ところが、この連中の格好が分からないのです。つまり元服してから出仕しているのか、前髪のまま出仕しているのか分からないのです。12、3歳といえば学問も武芸も修行半ばでしょうから、フルタイムの勤務は考えにくく、また前髪のままお城に上がる小姓勤めも江戸期とてあったわけで、それなら丁稚奉公のように前髪のままの奉公もあるような気もします。  
 とはいうものの元服に年齢規定はないので、月代を剃ってから見習いとして出仕するのが普通に考えると自然なのは分かるのですが、現代社会から想像すると12、3歳の遊びたい盛りの子供に月代を剃って働かせるのは、いたいげな感じがするのです。
 この問題は拾い読みでは解決しないので、範囲を広げて調べるべきなのでしょう。
by arihideharu | 2013-03-07 20:17 | 読書 | Comments(0)