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わくわく挿絵帖
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ウォーホル展
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 現代美術の世界でアンディ・ウォーホルほど有名な作家はいません。
 商業美術は今なお彼の影響下といえますし、またポップアートは現代美術において、いつの間にか太い幹となり柱となっています。 
 その大回顧展が開かれているわけですから、観ないわけにはいきません。
 
 展示は初期から晩年までの膨大な作品群、すなわちドローイング・版画・写真(第三者が撮ったものも含む)・映像・ペインティング・彼自身の収集品などが展示されています。
 めずらしい初期作品もあり、出色の充実ぶりです。 あとは彼の遺体のダミーでもあればコレクションは完璧といえそうです。

 久しぶりに人混みに出たのも加わり、作品を見終わるとかなり疲れ、館内の休憩椅子にドッカリ座り込みました。
 
 ぼくはウォーホルが特に好きでも嫌いでもありません。ただ、ウォーホルに強烈に影響をうけた世代を、近くでずっと見ていた記憶があります。
 つまり、ぼくらに一番影響力をもった、おじさんやおばさんの世代の日本の美術家が、盛んにウォーホル風をコピーしていた時代が青春期と重なっていたからです。

 また「近くで見ていた」という意味では、ビートルズ体験と似ています。世界中が英国の田舎の若者たちに次第に熱狂し、それが加速していく歴史絵巻を少年期にぼくらは見ていました。すぐ上の世代が、そのお祭りの中に入り、ともに狂喜乱舞していたからです。
 それは隣町のお祭りをガラス越しに見るような、味気なさが伴っていました。しかし、特に残念ということもありませんでした。何故ならお祭りの興奮は参加した者だけが分かちあえる美酒ですし、酒の味を知らない子どもには無理だったのです。ただ、背伸びをすれば手に入れることが出来る近さにありました。 

 美術や音楽が流行という文脈で語られ、爆風のような異次元なパワーをもって、世間に登場する歴史的瞬間を末席ながら立ち会っていたことになります。

 ぼくはこの回顧展ではじめてウォーホルの作品をじっくり観ました。やがて、ぼくは不思議な感覚に包まれていることに気がつきました。彼の作品が表現媒体に関わらず、みな同じオブジェのように見えてきたからです。

 伝説のミダス王は触れたものをすべて黄金にかえたといいます。黄金の対語が芥なら、ウォーホルは触れたものをすべてを芥にかえる術を天から授かっていたようです。芥とは悪臭を放つ無価値なものといった、否定的意味ではありません。この世にあるすべてのものから意味を抜きとり、偏在する価値を均等にした姿です。

 おそらく地球を俯瞰する視点をもったとき、地球上のすべてのものはこのような作品群で表象されるのでしょう。
 美女も空缶も意味を抜きとったら、等価というメッセージです。
 ウォーホルのこのような視点をもった作家を、ぼくは他に知りません。
 彼は地球人でなかった可能性があります。

 作品に戻ります。
 ウォーホルの各作品には共通項があることに気がつきます。「静けさ」「未完成さ」「無作為性」です。
 その背後にあるものは、おそらく強烈なナルシズムであろうと、目ぼしをつけることが出来ます。
 ただ、ぼくのナルシズムに対する認識では、結果として現れるものは肥大化した自己です。
 例えば表象化されたものとして、ロマン主義や耽美主義などですが、その痕跡がみあたりません。巧妙に痕跡を消しています。
 多くのポートレート写真が残っていますが、どれも同じ顔で写っています。これも痕跡を消す方法のなのでしょう。
 しかもその一つひとつの佇まいが、中世に描かれたキリスト像に似ています。
 彼のナルシズムは自己の肥大化とは逆方向のようです、

 ともあれ、「ウォーホル展」を観てからしばらく経ちますが、彼の作品が今は禅画のような味わいで残っています。
by arihideharu | 2014-05-12 20:52 | | Comments(0)