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わくわく挿絵帖
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隠れたパワースポット?
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 ぼくの散歩道にささやかな氏神を祀る神社があります。思い返してみると参拝したことがありません。時は正月でもあるし、文字通り初詣の場所にすることにしました。
 年が明けて三日目の昼下りです。
 
 鳥居をくぐり手水を使い拝殿の前に立つと、ぼくの前に女性が二人並んでいます。後ろ姿から歳はどちらも30前後と思われます。
 手を合わせ拝み始めた先頭の女性は銘仙風の着物姿で、羽織やコートをつけずマフラーだけを首に巻いています。帯は貝の口、履物はクロックスの古びたサンダルです。
 10秒20秒と一心に拝み続けています。やがて30秒を超えます。
「・・・」
 それからさらに30秒ほど過ぎ、多分通しで2分は優に超えたころ、やっと終わり次の番にきます。
 この方は普通の冬のコート姿です。
 ぼくは驚きました。この女性も長いのです。前の方より倍と思えるほどの時間を一心に拝むのです。
 その間ぼくは、社殿の上のよく晴れた空をただただ見ていました。

 何とか耐えぼくの番です。先ずは一息つき、お賽銭をあげ鈴を鳴らし、二拝して柏手をいつもより高らかに打ちました。すると頭に浮かんだのは、家内安全と四海安寧の文字。3秒ほど手を合わせます。あとはいつもよりいくらか丁寧に一礼して、この町中に佇む社を出たのですが・・・。

 もしかしてあそこは「隠れたパワースポット?」謎です。


# by arihideharu | 2019-01-03 22:17 | 暮らし | Comments(0)
明けましておめでとうございます。
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明けましておめでとうございます。
佳き年でありますようお祈り申し上げます。

今年もぼくはチャンバラと江戸の町を描きます。

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# by arihideharu | 2018-12-31 22:14 | 暮らし | Comments(0)
『京都 大報恩寺快慶・定慶のみほとけ』展から
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 ぼくは仏像を観るのが好きです。
 事始めは高校の修学旅行で、法隆寺の飛鳥仏を多数観たのがきっかけでした。
 特に気にいった仏像は一尺ばかりの金銅仏で、素朴な信心のありようが簡素に具象化されたさまに、静かな感動を覚えました。
 その後名刹を訪ねるたびに古仏を観てきて、ぼんやり思っていることがあります。
 多分仏像には三種類あって、ひとつは有難味が深く、かつ優れた技量で造られた仏。有難味が深いが技量がもの足りない仏。今一つは技量が優れているが有難味がもの足りない仏の三つです。
 
 僕の好みも交えれば多分、日本の仏教美術において鎌倉期に造られた運慶・快慶が代表する慶派が残した仏像が頂点と思われます。
 これは上記の三種類のうち、有難味と技量の高さがきわだった仏たちです。
 
 美術だけでなく音楽や芸術全般で日本人の美意識の特徴として、「ヘタウマ」を最高位に置くことがあげられます。
 ところが慶派の仏像は紛れなく「ウマウマ」です。日本人の好みからいったら異端に属します。
 この一派が異端でありながら、日本を代表する仏教美術になりえたのは何故か。
 おそらく仏教における信仰の磁場がこの時代、日本史を通じて並外れて強く、恐ろしい才能や頭脳の持ち主たちが時空を超えて引き寄せられ,本来癖の強い者たちが自我を捨て一心に彫ったためだと『京都 大報恩寺快慶・定慶のみほとけ』展で圧倒する美しい仏たちを観て思いました。

# by arihideharu | 2018-12-03 21:40 | | Comments(0)
藤田嗣治について


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 先ごろ『藤田嗣治展』に行ってきました。
 見終わって帰りぎわ、「そういえば、実家のぼくの部屋の壁には藤田の『カフェ』をずっと貼ってあった」ことを思い出しました。

 藤田嗣治の絵とロイド眼鏡のモダンな風貌を知ったのは、多分中学生のころです。
 彼の美人画は美術全集を見る限り、竹下夢二とともに近代日本絵画の中で異才をはなっていました。そして子供でも、この二人は世俗に人気を集め、大層売れっ子であったに違いないと、さして解説を読まずとも独特の花のあり様で察しがつきました。

 高校生になり少しは解説を読んだり世間の評判を耳にすると、この二人、芸術的評価が低いことが分かってきます。
 近代絵画は文学と同様、悲劇性のある早世した天才画家に、注目が集まります。青木繁・村山槐多・佐伯裕三・松本俊介などなどです。
 彼等の共通点は、メランコリーでやや暗い画風です。
 ぼくも彼らにあこがれました。

 その点、上記の二人はメランコリーですが暗さはありません。
 彼等の共通する特徴は少しエロチックで、禁欲性がないことです。
 このことが、おそらく大きな違いを生み、割にあっさり大衆的人気を得た要因と僕は考えています。
 ただこれらはマイナス要素となり、玄人筋の嫉妬と不評をかったと想像できます。
 とりわけ竹下夢二は国内限定で、特に婦女子に人気でしたので嫉妬が加速したことでしょう。
 
 それに比べ藤田嗣治はパリではピカソのような花形画家でした。
 つまり国際的活躍をした日本で最初の絵描きといえます。おしみない賞賛がもっとあってしかるべきです。
 しかしながら、ぼくの持っていた画集の解説には、彼の絵はイラストレーションで芸術ではないというような評論が堂々と書かれていました。
 しかも、この論調は学校の教師たち、特に美術教師がよく用い、さらに彼が戦争画を描いたことから、戦争協力者というレッテルを貼る風潮も加わり、藤田嗣治を賛美することは学校でも世間でも封じられていた感がありました。

 当時ぼくの彼に対する態度は揺れていました。本当は好きなくせに、時と場合で嫌いな素振りをすることもありました。
 ただ、時折雑誌で見る戦争画だけは暗く不鮮明でしたが、不思議に納得するものがありました。
 何故なら、古来人物画を得意とする画家は優れた群像画を残し、その中には戦争画も多く含まれます。
 
 おそらく並外れたエネルギーと技量を持った画家だけが戦争画を描く資格を持ち得ます。彼にはその資格が十分ありました。
 したがって、先の戦争に巡り会った藤田嗣治が、戦争画を描いたのは当然の流れだなというのが、ぼくの感想でした。
 画家の側からいえば、その機会を得ることは天佑といえます。

 幕末の絵師・月岡芳年は徳川の世を終わらせた上野山の戦争を嬉々として描きました。
 それが後世、彼の出世作であり代表作と評されます。
 直参旗本の血を引く藤田が、美女を描き、戦を描き、ネコを描くことは歌川派の町絵師たちの名を出すまでもなく、いわば江戸っ子の習性であり美意識で、それを揶揄するものは、「とんだ浅葱裏(野暮天)だ」と藤田嗣治が腹で思っていたに違いないと、ぼくは今感じています。
 
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# by arihideharu | 2018-10-17 00:14 | | Comments(0)
上方と江戸
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 江戸期、上方と江戸では随分と風俗が違ったようです。
 例えば、市中を商品をかついで売り歩く振り売りを上方ではすべて「ぼてふり」といったようですが、江戸では魚屋だけの呼称でした。
 ちなみに「ぼて」は「はりぼて」の「ぼて」で竹細工に紙を貼ったあれです。商品を竹笊に紙を敷いて乗せたので、その容器を「ぼて」と呼んだようです。

 行商といえば、廻り髪結いが持つ道具箱を上方では台箱といい、江戸では鬢盥(びんだらい)といいました。

 道具箱つながりで、落語『三井の大黒』の中で、大工の道具箱を江戸ではおもちゃ箱と呼び、また大工のことは上方では番匠と呼ぶと語っています。

 男の代表的帯の結び方に貝の口というのがあります。これは上方と江戸では結び目が逆だったそうです。

 女性の風俗では、ハンドバック替わりの巾着袋は江戸末期になると上方では普通に使用されたようですが、江戸で見られるようになったのは明治以降でした。
 江戸で流行らなかった理由として、巾着袋をブラブラさせて歩くと侍の刀の鞘にひっかかり厄介だったからだそうです。ですから手荷物は風呂敷に包み、胸にしっかり抱えて歩くのが基本でした。
 何しろ、上方と江戸の大きな違いは武士の人口で、上方では全体の5パーセント前後と考えられますが、江戸では50パーセントほどあったそうですから、それは大変な違いでした。

# by arihideharu | 2018-09-13 21:11 | 挿絵 | Comments(0)