(前回続き)数年前のことです。神楽坂を妻と散策をしていたときのこと、江戸指物を扱う小店を見つけ覗いたことがあります。
狭いながら整然とした店内でした。
その中に、ぼくは円形ちゃぶ台の注文制作の案内を見つけました。それによると、最小3・40センチほどから制作可能だということが分かります。
ぼくは驚きました。そんなミニサイズは、もはやちゃぶ台と呼べないと思ったからです。
と同時に何枚かの浮世絵が頭に浮かびました。
それは料理屋とか茶屋の広い部屋での饗宴の図で…。お膳にしては大きく、ちゃぶ台にしたら小さい、 漆塗りの食事道具がでんと置かれた風俗絵図です。
形は円形や方形、多角形など様々ですが、蒔絵が施され、瀟洒な風情があります。
しかし、大きさと拵えを別にすれば、昭和のちゃぶ台そのものです。
ちゃぶ台は近代以降に登場したとされています。
ぼくにとって、これらちゃぶ台のようなお膳は久しく謎でした。
ぼくはそのことを妻に告げました。
すると、それを耳にしたようで、店番の女性がにわかに近づき、店の一画に袖を引きながら、世に胡座膳なるものがあることをぼくらに告げます。
狭い店内です。数歩の歩みで胡座膳なる物を目にし、手に取ることになりました。驚くべき展開です。
それは幅4・50センチ高さ20センチ弱、円形の脚付膳で、しかも折り畳み式で、天板と脚が分離できます。形も大きさも頭に浮かんだばかりの絵の中の、ちゃぶ台もどきにそっくりです。
江戸後期、長崎から和漢蘭の折衷で卓袱料理なる、朱塗りの円卓に料理をもった大皿を並べ、各自が取り分けるという食し方が江戸にも伝播されたことは広く知られています。
南蛮わたりの絨毯の上に、円卓を置き酒肴を整えれば、異国情緒をさぞや満足させたに違いありません。
それらは江戸で流行ったらしく、円卓を囲む風流人の図を時々見かけます。しかし、庶民レベルの風俗図に見ることはほとんどありません。
つまり、ちゃぶ台の原型はすでに江戸期にあったが、爆発的に定着したのは明治大正以降という、座蒲団や掛け蒲団、女持ちの信玄袋などと経緯が似ています。
しかしながら、江戸市民文化は爛熟し、円卓などの影響を受け、お膳はより多様化し、ついにはちゃぶ台のようなお膳が現れたということなのでしょう。
映画『幕末太陽傳』で、フランキー堺が独楽鼠のように動き回る最大の見せ場で、小僧から料理を盛った巨大なお膳をさっと奪い取り、くるりと持ち去る有名なシーンを古い映画ファンの方は思い浮かべて下さい。
あれがちゃぶ台とお膳の境目がなくなった、幕末に現れた酒席のお膳の形と思われます。
胡座膳なる名や形式が江戸期にあったかは知りません。しかし、正式なお膳より脚が短く、行儀悪く座り酒杯を傾ける、いかにも気分が伝わるうまい名称だと思います。