『図説・江戸町奉行所事典』という重宝する本に、文久元年町奉行所与力・同心の一覧表が載っています。
ぼくはここしばらく、こればかり見ています。相当地味ですが、どういうわけか飽きません。
一般的解説本には、南北の町奉行所にはそれぞれ与力25騎と同心120人がいて、それが5組に分かれて組織されていると説明されます。
その伝でいくと一組の与力の数は5名、同心は24名となります。
ところがこの表を見ると、南町奉行所一番組では与力7名に同心25名で、二番組では与力9名に同心36名で、かなり不揃いです。
これは雇用を世襲にたよる結果だと考えられます。
ただ、二番組の与力9名のうち同姓が3組いるので、これは親子と考えられ、3名は実質見習いと想像できます。
また、2番組同心の数が異様に多いのは、幕末の動乱に備えた増員のせいと考えられます。
ちなみに文久元年は1861年です。
次に目につくものは、同心が四つに分かれていることです。年寄・書物・添書物・同心の四つです。
これは与力が将校にあたるなら、年寄同心が下士官で、平同心が兵卒と考えられます。また書物・添書物はその中間の地位と考えられます。
想像を膨らませると、年寄は曹長で、書物が軍曹、添書物が伍長かもしれません。
また元々、与力は騎馬兵で同心は歩兵ですから、人数比から考えると、騎馬兵一人に対し歩兵4・5人の編成ということになります。
ちなみに、小説やドラマでおなじみの廻り方同心・約14名は、すべてこの上級下士官である年寄です。
しかも、上司(与力)を持たない特殊な部署です。となると未熟な与力など、この者たちに従うしかなっかたと想像できます。
また、ほかの年寄同心の所属部署を表の並びで見ていくと、年番方同心6人のうち2名が年寄同心です。次の本所方の同心3人のうち2名が年寄です。
このことから本所方は意外と重要な役目であったことが伺えます。
意外と言えば、かなり重要と思われる裁判職の御詮議役に筆頭与力の名は載っていても、年寄同心の名がないことです。
これは同心においては、内勤より外勤重視という町奉行所の性質からと愚考しています。