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わくわく挿絵帖
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印象派と浮世絵

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 近代に入ると西洋では神様を描くより、日常を描くことが絵描きの主題になることが増えていきます。
 近代絵画の幕をきった印象派は、この世を光に置き換えてとらえようとしました。
 これは日常をさりげなく写す、よく考えられた方法でした。
 その時ものには輪郭はなくなり、同時に事象の意味も消え、色の連なりだけが絵描きにとっての実在となります。
 この出会いはセザンヌなどの実験をへて、画家たちに様々なインスピレーションを与え絵画史を大きく変えました。
 
 印象派のスタート時に戻ります。
 万物を光に置き換えるアイディアはすばらしかったのですが、実践となると事実上不可能でした。
 何故なら絵描きはカメラのように、瞬時に日常を二次元化が出来ないからです。
 これを実現するには、異常な再現力をもった者か、すぐれた忍耐力と構成力を持った者しか出来ないやり方でした。
 やがて一部の画家の奇跡的成功だけで、多くの画家は限界を感じます。
 しかし実際は、この方法論は敷居が低く、写生の基礎表現方法として、今でもひろく実践されて量産されています。
 それだけこのやり方は普遍性と共感力があるかわり、差別化が難しいのです。
 ここで生き残った者は、無意識に過剰に現実を脚色する力を持ったモネやルノワールのような、いつの時代でも汎用性のある憑依型の天才でした。

 我々は永遠に続く日常の中に生きています。しかしながら日常はとどまることを知りません。
 そこで、ドガやロートレックのような形好きなデッサン家は、光に加え線でこの世を活写する方法に喜びを見い出します。
 ここには『北斎漫画』の影響があったと言われています。
 北斎の偉大なデッサン力は簡単な線で、ものの本質を写しました。これは彼一人の手柄では勿論なく、長い伝統の中で型の踏襲と改良を繰り返した結果です。 しかしながら彼ほどあらゆるものを写した画家は多分なく、その表現は西洋人に世界の広さと多様さを瞬時に理解させる力がありました。
 また画家たちには、北斎の日常のさりげない一瞬の動きをとらえた絵に驚愕します。
 何故なら、彼らは永遠の美を描くのが画家の仕事だと思っていたからです。

 永遠の美とは、ギリシャ彫刻のような完璧さや理想を求める美で、やり方としては人物を描く場合はモデルを置きデッサンを繰り返し、風景や静物も同様の行程をへて、それらをテーマに合わせ構成し現実を理想に置き換えることでした。 
 したがって長い西洋絵画史の中に、動きのある絵はあっても、日常のたわいのない動きをありのままに描く文化はなかったのです。
 
 この浮世絵木版画との出会いは、西洋の絵描きには目から鱗で、絵描きのプライドを守りながら、日常を活写し、勃興する写真リアリズムに対抗するプロの画家が生き残る手段と映ります。
 そのとき画家たちは直ぐに、線表現は個性が発揮しやすいという偉大な利点があることを見つけます。
 彼らは驚きました。同じ存在物を写しても線表現は画家の違いが大きく出るのです。
 同時に彼らは、デフォルメする快感を見い出します。
  
 それは画家たちが、神が創造した形から解放された瞬間でした。

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by arihideharu | 2018-03-16 15:49 | | Comments(0)
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