クリント・イーストウッドの『ダーティーハリー』をたまたま仕事を終えてから見始めたら癖になり、シリーズ全作を短時間で見終えてしまいました。今はほかのイーストウッド作品を物色中です。
ぼくは『ローハイド』やマカロニ・ウエスタンを同時代に観ていたので、彼の息の長い偉大さを知っているつもりでいました。
これはおそらくぼくの身勝手な間違いで、彼の偉大さを見過していた最初の世代かもしれないと今思い始めています。
それは後日映画館で最新作の『15時17分、パリ行き』を観て、彼の演出家としての名人芸ぶりに脱帽したからです。
振り返ると『ローハイド』の彼は痩せたのっぽだけの、たいした印象を残さない若者でした。マカロニ・ウエスタンでエンニオ・モリコーネの音楽と共に登場したとき、ぼくは熱狂しましたが、どこか紛い物扱いをしている自分もいました。
やはり、アメリカの原野で撮ったハリウッド映画ではないという残念な思いが常にあったからです。
そして『ダーティーハリー』を観たときも、これぞハードボイルドと膝をたたき、アメリカに帰還したガンマンに大いに喝采を送りました。
しかしポール・ニューマンとスティーブ・マックイーンを最上の活劇俳優とインプットされた世代でしたので、僕の格づけも鰻登りでしたが、B級アクションの域をでない日活アクションのような位置づけでした。
今さらですが『ダーティーハリー』が映画史に大きな意味があったことはその後の流れをみると明らかで、今となっては、彼と比すべきはジョン・ウエインだけで、イーストウッドが映画史上最高のカウボーイ俳優であることは間違いなく、なおかつ秀逸な演出家であることは周知のこととなりました。
さらに『許されざる者』や『ブロンコ・ビリー』はリアル・カウボーイを演じるものが、今彼しか残っていないことを示すものでした。
ジョン・ウエインの偉大さは彼の巨漢にありました。誰より大きい躰が常に抑止力になり、大概の諍いは事前にさけられ、いざというときは銃を抜くまでもなく、一発のパンチで敵を倒し正義を公使する、説明不要の説得力があることでした。
クリント・イーストウッドの武器も似ています。それは身長です。彼の上背を越える者はアメリカ社会でもめったにいないらしく、それが抑止効果があることは、『ダーティー・ハリー』以降の映画から顕在化します。
彼の長い腕から繰り出すパンチは実践と共に重くなり、先制攻撃の確実なパンチが危機回避の決め手となることを教えます。
それに加え、暇さえあればジョギングする姿を映し、実は持久力こそ勝敗を決める最終兵器であることをにじませます。
本物の戦士は無駄な筋肉を嫌います。
ジョン・ウエインは家長的存在として常に、仲間や家族と共にいますが、イーストウッドのカウボーイ像は孤独です。
荒野をさすらい、石を枕に臥する生活は長期にわたり、おそらく彼には帰るべき家がなく、頼るべき家族もいない様子です。
命を捨てることが、それほど彼には怖くないのでしょう。常に危険に飢え、危険センサーは麻痺状態で酔ったような感覚がどの映画にも流れます。
武芸における奥義とは、いつでも即座に命を捨てる覚悟を懐に忍ばせて置くことです。
クリント・イーストウッドはこの奥義を初めからものにしていたようです。
思うに彼の本質は、たちの悪い根っからのチンピラと考えるべきなのかもしれません。