司馬遼太郎の作に江戸中期の画家、呉春(1752−1811)と芦雪(1754−1799)をあつかった作品があります。
歴史小説家の書くものの中に、絵師や文人を題材にしたものに傑作が多いような気がします。
司馬さんのこの二作品もまた傑作で、時々思いおこし筋をなぞることがあります。
松村呉春は二人の師匠につきました。二人とも日本美術史おける巨人です。
最初の師である与謝無村は周知のように世俗を超克した俳人で画家でした。俳句は芭蕉と比され、絵は粋人好みの文人画を代表する一人でした。
従って無村は貧乏でした。
無村が亡くなって後、時の京都画壇の雄、丸山応挙門下となります。といっても弟子の扱いではなく客分格といわれています。
わけは無村の内弟子で、かつ名手として名が知られていたからです。
応挙は西洋流の写生を伝統絵画に取り入れたパイオニアとして、日本美術史において何人もいない革新者の一人です。
世俗においても江戸期を通じ、東の谷文晁と並び天下第一の画家として、描くそばから高く売れる状況にありました。
二人の師の画風は懐具合だけでなく両極にありました。
無村はヘタを極めようとした画家で、応挙はウマサを極めようとした画家です。
呉春は二人の師を深く愛しました。
彼の画才は二人に劣るものではありませんでした。
およそ芸事は9割方才能で、あとは巡り合わせと執念で優劣は決まります。
この師弟、来世で立場が入れ替わっていてもおかしくありません。
しかし司馬さんは無村が相当お好きらしく、小説では才人呉春を継子あつかいし、器用なだけの凡庸な画家として描いています。
ぼくは古くから応挙が気になっていました。
何故なら、日本絵画史のなかで高校生以前の教科書レベルの知識で、ぴんとくる絵といえば、ぼくの場合、近世では琳派と浮世絵で、あとは円山応挙と渡辺華山ぐらいでした。与謝無村や池大雅は良く分かりませんでした。
やがて高校生になり円山四条派の画集を側に置くようになると、応挙門下の呉春と芦雪が気になり始めました。
何故なら彼らのやろうとしていることがぼくには良く理解出来たからです。
長沢芦雪は呉春より二つ下で、いわば二人は応挙門下で歴史に名を残した竜虎で、特に芦雪は技においては師を越えるほどでした。
これを剣豪小説に例えるなら、芦雪は師と道場で仕合、3本に2本は勝つことが出来る技の鋭さと勝ちへの執念があります。
門弟や関係者の中には師を越える日も近いと言う者も、いや越えていると言う者もいます。また顔をしかめ、あれは邪剣だと言う者もいます。
聡明さとうぬぼれが同居する芦雪は、半ば師を越たような気でいますが、真剣ならば師に勝つことは叶わぬことを知っています。
温厚そうに見える師の剣技の恐ろしさを、良く知っているからです。
呉春はというと道場において、たまに師に勝つこともある程度ですが、実践なら時を得ると勝かもしれないと人に思わせるところがあります。
時々妙手を使うことがあるからです。
ただ呉春には勝負を避ける癖があります。がむしゃらに勝とうとする気迫がないのです。
これは呉春の性質と無村流から学んだものと思われます。
しかし、勝つときは息をの飲むようなきれいな技を使います。
また、こういう才は道場に置いておくと大層重宝しました。いつの間にか応挙流も会得し、いかなる技も上手に使い、初心の者から上級者まで上手に教えることが出来るからです。
江戸期の人にとって、西洋流の写実主義は鮮烈な印象を残しますが、同時に疲労感を覚えました。
応挙より前に写実を始めた伊藤若沖の彩色画がそうです。
また、その後江戸中心で起きた蘭画は、さらに奇っ怪な印象を残すだけで、人をなごますことのない絵でした。
この刺激は俗人には毒に見えました。
しかしながら、京都は奥深い古都です。常に新しいものと古いもの求めます。したがって願わくば、この二つの同居を目の肥えた顧客たちは画家にもとめました。
これを応挙はいち早く見事に実現します。
しかしながら応挙は京都のパトロン達は欲深いことを知っています。
彼らは常に茫漠たるものを求めます。
顧客の多くは寺だからです。
応挙は古くから、若沖と同年の無村にはそれがあることを知っていました。応挙は無村の画風と質は真似が出来ないと常々思っていました。そして、無村の茫洋とした絵を観るのが好きでした。
呉春を側に置こうと考えたのは、それ故と想像出来ます。
加え呉春は芦雪と違い、師の寝首をかくこともなさそうです。
数百年経て、芦雪の斬新さの評価はますます高まり、彼の天才を疑う者はいません。
呉春はといえば、その後新しい流派をうち立て多くの門人を育て、その流れは明治以降の現代日本画の礎の一つになったと伝えられます。