『鬼平犯科帳』(池波正太郎・著)の中に『乞食坊主』という好編があります。
筋は二人の悪党が、町中にある小さな社の裏手で盗みの相談をしています。会話がとぎれたとき、祠の床下からぬっと乞食坊主がにやけた顔で出てきます。
悪党は悪事を聞かれたと思い乞食坊主を殺そうとしますが、人目があって一旦その場を離れます。
時をおき二人は、坊主の寝込みを短刀で襲います。ところがこの坊主、寝ていたはずなのに素手で二人をたたきのめしてしまいます。
それもそのはずで、彼は長谷川平蔵と同門の剣客で平蔵の弟弟子にあたる達者です。
二人組は自分らで倒すのは無理とみて、大金をつみ、折り紙付きの二本差しの殺し屋を雇います。
しかし、この殺し屋も乞食坊主の敵ではありません。
タネを明かせば、殺し屋もまた長谷川平蔵と同門の剣客で、かつ乞食坊主が最も可愛がっていた弟弟子。木太刀の持ち方から酒の飲み方、女の抱き方まで教えた仲です。
殺し屋は自分が殺そうとした者が、兄と慕っていた男と知り、泣いて詫びます。
このあたり池波作品の特徴で、あり得ない偶然の積み重ねで、どんどん舞台は進みます。
落ちぶれた同門の二人の侍、いずれも微禄とはいえ元御直参で、乞食坊主の方は跡取りでしたが父親の不行状でお家が断絶。 費えの道がたたれると不器用で曲がったことも出来ないこの男、乞食の道を選びます。
一方殺し屋の方は、次男以下のいわゆる「厄介者」で、養子の道もなく、商いをする器量もなく、剣の才はありましたが一家をなすにはほど遠く、人の良さだけが取り得でしたがそれが災いし、悪の道に入ったという男でした。
それまで世を捨て、ごく気楽に生きてきたこの乞食坊主も、可愛がっていた男の尋常ならざる境遇を救うべく思いをめぐらします。
やはり頼るべきは、今世に聞こえし鬼と呼ばれる火付盗賊改方頭・長谷川平蔵。自分が兄と敬愛していた男です。
彼は平蔵の役宅に乞食姿で訪いを告げます。
すると門番から家士まで、顔をしかめ背けますが、平蔵は笑いながら招じ入れ、酒杯を握らせ積もる四方山話に興じます。
このあたり池上文学の真骨頂です。
彼の作品の美質は友情に篤きことと、交わりに老若貴賤を問わぬことです。
しばし二人は酒杯を重ね、若き日の血潮の熱き日々を語り合います。
彼の貴賤を問わない気風は、なにもヒューマニズムからくるものではありません。
この世の貴賤貧富はちょっとした巡り合わせ。賽の目の加減で、どう転ぶか分かったものではない。今見えるものは仮の姿だという、彼の世界観からです。
これは現代社会からみたら異風ですが、ちょっと前まで多分、日本全体をおおっていた世界観です。
この世界観は現世だけでなく、前世も来世も含みますから、この乞食も別の世界では貴人かもしれないし、今権勢を誇る者も来世では人ですらないかもしれません。
平蔵という男、始終命のやりとりをしていますから、三途の川の番人から閻魔様まで顔なじみです。
したがって、己の来世は犬畜生かもしれないことを識っています。
しかしながら鬼平たち、友との交わりは転生しても変わらぬものと思うところがあり、思うに彼らにとって武士道とはこの世を越えた式目なのでしょう。
また乞食坊主の方も、現世は幻で、酔いしれて美女の膝枕で眠る己の夢が、この世の正体だぐらいに思っています。
現世に未練を残さないのが剣客の心得の第一義のようで、この奥義を会得した者同士、つまり鬼平と乞食坊主との共感がこの作品の主題です。