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わくわく挿絵帖
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藤田嗣治について


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 先ごろ『藤田嗣治展』に行ってきました。
 見終わって帰りぎわ、「そういえば、実家のぼくの部屋の壁には藤田の『カフェ』をずっと貼ってあった」ことを思い出しました。

 藤田嗣治の絵とロイド眼鏡のモダンな風貌を知ったのは、多分中学生のころです。
 彼の美人画は美術全集を見る限り、竹下夢二とともに近代日本絵画の中で異才をはなっていました。そして子供でも、この二人は世俗に人気を集め、大層売れっ子であったに違いないと、さして解説を読まずとも独特の花のあり様で察しがつきました。

 高校生になり少しは解説を読んだり世間の評判を耳にすると、この二人、芸術的評価が低いことが分かってきます。
 近代絵画は文学と同様、悲劇性のある早世した天才画家に、注目が集まります。青木繁・村山槐多・佐伯裕三・松本俊介などなどです。
 彼等の共通点は、メランコリーでやや暗い画風です。
 ぼくも彼らにあこがれました。

 その点、上記の二人はメランコリーですが暗さはありません。
 彼等の共通する特徴は少しエロチックで、禁欲性がないことです。
 このことが、おそらく大きな違いを生み、割にあっさり大衆的人気を得た要因と僕は考えています。
 ただこれらはマイナス要素となり、玄人筋の嫉妬と不評をかったと想像できます。
 とりわけ竹下夢二は国内限定で、特に婦女子に人気でしたので嫉妬が加速したことでしょう。
 
 それに比べ藤田嗣治はパリではピカソのような花形画家でした。
 つまり国際的活躍をした日本で最初の絵描きといえます。おしみない賞賛がもっとあってしかるべきです。
 しかしながら、ぼくの持っていた画集の解説には、彼の絵はイラストレーションで芸術ではないというような評論が堂々と書かれていました。
 しかも、この論調は学校の教師たち、特に美術教師がよく用い、さらに彼が戦争画を描いたことから、戦争協力者というレッテルを貼る風潮も加わり、藤田嗣治を賛美することは学校でも世間でも封じられていた感がありました。

 当時ぼくの彼に対する態度は揺れていました。本当は好きなくせに、時と場合で嫌いな素振りをすることもありました。
 ただ、時折雑誌で見る戦争画だけは暗く不鮮明でしたが、不思議に納得するものがありました。
 何故なら、古来人物画を得意とする画家は優れた群像画を残し、その中には戦争画も多く含まれます。
 
 おそらく並外れたエネルギーと技量を持った画家だけが戦争画を描く資格を持ち得ます。彼にはその資格が十分ありました。
 したがって、先の戦争に巡り会った藤田嗣治が、戦争画を描いたのは当然の流れだなというのが、ぼくの感想でした。
 画家の側からいえば、その機会を得ることは天佑といえます。

 幕末の絵師・月岡芳年は徳川の世を終わらせた上野山の戦争を嬉々として描きました。
 それが後世、彼の出世作であり代表作と評されます。
 直参旗本の血を引く藤田が、美女を描き、戦を描き、ネコを描くことは歌川派の町絵師たちの名を出すまでもなく、いわば江戸っ子の習性であり美意識で、それを揶揄するものは、「とんだ浅葱裏(野暮天)だ」と藤田嗣治が腹で思っていたに違いないと、ぼくは今感じています。
 
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by arihideharu | 2018-10-17 00:14 |
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