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わくわく挿絵帖
sashieari.exblog.jp
カテゴリ:挿絵( 42 )
上方と江戸
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 江戸期、上方と江戸では随分と風俗が違ったようです。
 例えば、市中を商品をかついで売り歩く振り売りを上方ではすべて「ぼてふり」といったようですが、江戸では魚屋だけの呼称でした。
 ちなみに「ぼて」は「はりぼて」の「ぼて」で竹細工に紙を貼ったあれです。商品を竹笊に紙を敷いて乗せたので、その容器を「ぼて」と呼んだようです。

 行商といえば、廻り髪結いが持つ道具箱を上方では台箱といい、江戸では鬢盥(びんだらい)といいました。

 道具箱つながりで、落語『三井の大黒』の中で、大工の道具箱を江戸ではおもちゃ箱と呼び、また大工のことは上方では番匠と呼ぶと語っています。

 男の代表的帯の結び方に貝の口というのがあります。これは上方と江戸では結び目が逆だったそうです。

 女性の風俗では、ハンドバック替わりの巾着袋は江戸末期になると上方では普通に使用されたようですが、江戸で見られるようになったのは明治以降でした。
 江戸で流行らなかった理由として、巾着袋をブラブラさせて歩くと侍の刀の鞘にひっかかり厄介だったからだそうです。ですから手荷物は風呂敷に包み、胸にしっかり抱えて歩くのが基本でした。
 何しろ、上方と江戸の大きな違いは武士の人口で、上方では全体の5パーセント前後と考えられますが、江戸では50パーセントほどあったそうですから、それは大変な違いでした。

by arihideharu | 2018-09-13 21:11 | 挿絵 | Comments(0)
江戸っ子日時計、朝ノ刻
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 江戸時代の平均引退年齢は、45才程度だったそうです。理由はこの時代、眼科と歯科がないに等しく、眼と歯の衰え方が早かったからというのです。
 
 考えてみると、近代以前はメガネがほぼありませんから、大概の仕事は出来なくなり、かつ抜歯のあとの義歯は未発達ですから、食事はかなり難儀となります。これが生活の最大阻害要因となることは、容易にうかがいしれます。
 したがって長寿で達者な者は、よほど眼と歯が傑出して良かったのでしょう。
 
 ただ、歯磨の習慣だけは急速に広まったようです。特に江戸では楊枝屋と歯磨屋の繁盛店が現れ、楊枝屋の看板娘は鈴木春信の錦絵となり、本郷あたりの歯磨屋は今に残る川柳となります。また、四代目市川団十郎を商標にした『団十郎歯磨』なる商品も現れます。
 これは大いに売れたようで、さらには『助六歯磨』菊五郎の『匂ひ薬歯磨』『沢鷹屋歯磨』なども出て、歌舞伎役者が歯磨のアイコンとなったことが想像出来ます。
 
 さらに歯磨きだけでなく、舌こきの習慣もはじまります。
 またヒット商品には砂が混じったものもあり、歯が無くなるほど磨きこみ、歯の汚い田舎者を小馬鹿にし「口を開けるな、臭い」などと言い、歯の白きを自慢する風も極まっていきます。

 歌川国貞に七代目団十郎が起きぬけに、房楊枝を使うところを描いた錦絵があります。題は『俳優日時計、辰ノ刻』。
 これはどう観ても歯磨屋の商業ポスターで、ミュシャやロートレックに先駆けています。


by arihideharu | 2018-05-08 21:25 | 挿絵 | Comments(0)
撮影所史観
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 鈴木春信(1725?〜1770)、喜多川歌麿(1753?〜1806)、歌川国貞(1786〜1865)の美人画を眺めていると映画やテレビの時代劇の風俗は、どうやら明治以降のそれを基本に置いていることが見えてきます。

 先ず一番に目につくものは、女性の着物の着こなしです。
 現代の感覚からしたら奇妙に見えますが、江戸文化の成熟期は成人女子の着物は丈が長くなり、武家や商家の屋内では裾をひきずる丈で着るのが常態でした。
 しかし、外出のときは当然じゃまですから片手で裾を持ち上げ、あるいは少し遠出のときは、手で持つかわり「しごき」と呼ばれる柔らかい帯で着物の上から結んでおさえました。
 
 ファッションは変遷します。
 明治に入ると、日常的着付けは腰のあたりで長い裾を「しごき」を使って、「おはしょり」つまり折り返しを作り、引きずらない程度まで丈を調整するようになります。このとき「しごき」は折り返しの内側に結び、その上から帯を結びます。
 時代劇映画は初期段階から、このスタイルを採用します。
 要するに、映画やテレビの時代劇で見る女性の着付けは、江戸期のものではなく、ほとんど現代のものということになります。

 もう一つは髪型です。
 成人女子の髪型は江戸中期以降、四つのパーツに分けて結うのが一般化します。
 正面から見ると前髪と呼ばれる、額の上二三寸を頭頂で束ねた三角形の部分と左右の耳の上をひさしのように被さる鬢(びん)。頭頂からやや後で様々な形で結ばれる髷(まげ)。襟足から上、髱(たぼ)と呼ばれる後ろ髪の四つです。

 この四つのパーツは時代によって身分年齢によって、変化します。
 しかし、ほぼ変わらないパーツが一つあります。
 それは前髪です。
 
 浮世絵を見る限り前髪は頭の輪郭にそって、きりっと頭頂で結ばれているのが大方です。
 ところが時代劇の日本髪では、この前髪が大きく膨らんでいます。
 これは田舎芝居のような段階から始まった活動写真ですから、カツラのクォリティーの問題もあったと思います。
 しかしながら、ぼくはかなりの部分、明治以降の髪型の流行が影響したと思っています。
 幕末から明治以降の日本髪の変遷を写真で見ていくと、あきらかに前髪の形状が変わり、前に突き出すように大きく膨らんでいます。
 日本映画の黎明期を考えれば、撮り始めた連中は明治生まれで、彼らにとって江戸時代は手の届く範囲でした。日常的に誰もが着物を着て、日本髪の女性がたえず側にいますから、男子のチョン髷と帯刀を除いたら、風俗は江戸期とさして変わらないと、ザックリ考えていたと想像できます。
 まして撮影所があった京都は歴史の跡が色濃く、新撰組の騒動や蛤御門の戦も間近に見た者が生きていたことでしょうし、この錯覚が安易に普段着とちょっとした芝居装束だけで時代劇が出来ると当事者たちは胸算用したに違いありません。
 おそらく、ここで作り上げたノウハウが、その後の撮影所史観になっていったと考えられます。

*あわせて『「赤ひげ」における帯締め』 http://sashieari.exblog.jp/17283180/をお読みくだされば幸いです。
 

by arihideharu | 2017-12-06 20:14 | 挿絵 | Comments(0)
剣客像
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 大昔のスチール写真を観ていて剣戟スターの中で、ぼくが圧倒的に立ち姿がきれいで絵を描くにあたり手本にしたいと思う役者は嵐寛寿郎と月形竜之介です。

 伊藤彦造という戦前戦後に活躍した希代の挿し絵画家がいました。
 彼の描く剣客は細身で、どこか上記の二人に似ています。
 また永倉新八という新撰組生き残りの剣客が、老齢になっての写真を残しています。
 痩躯に白い顎鬚をたくわえ凛とした姿で、晩年の嵐寛寿郎を思わせます。まさに剣客像のひな形を見るようです。
 
 実は挿し絵と映画は密接な関係がありました。
 先にあげた伊藤彦造は細密なペン画の絵師ですが、この画風は、当時大量に出廻った映画のスチール写真が大いに影響したとぼくは考えています。
 
 映画は変遷していきます。戦後になり黒澤明と三船敏郎のコンビが登場しチャンバラ映画が塗り替えられ剣客像が変わります。
 細身から大分マッチョになり剛剣のイメージになります。
 この変化に敏感に反応したのは、黎明期のレンタル漫画(貸し本)です。
 バタ臭い顔に長いもみ上げとボサボサ頭、三船敏郎の顔が浮かびます。そして黒澤映画独特の豪快なスピード感のある殺陣が同様に繰り広げられ、血しぶきを上げます。
 漫画はどんどん写実を追求し劇画と呼ばれるようになっていき、端正な剣客像からハードボイルドな剣客像に移っていきます。

 しかしながら黒澤映画を良く観ていくと、三船敏郎の殺陣は嵐勘十郎と同様に姿勢が常に垂直で乱れず、実は大いに端正であることが分かります。
 その後この剣客像はボリボリ頭をかき、すぐに胡座をかき酒をねだる、行儀の悪さだけが強調され本来の折り目の正しさが抜けていきます。
 

by arihideharu | 2017-10-01 15:58 | 挿絵 | Comments(1)
竹刀稽古
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 近衛十四郎という剣戟俳優は、随分長い柄(つか)と刃渡りの刀をきれいな弧を描いて振り回していました。
 テレビ時代劇を観なくなって久しいので、確信をもっていえませんが、近頃長い柄の刀を腰に差す侍や身にそぐわぬ長大な太刀をつかう小兵の侍など、あまり見なくなったとふと思いました。
 
 というのも、江戸期の竹刀稽古の様子を調べるつもりで『北斎漫画』を開きました。
 そこには現代剣道とくらべたら貧相ですが、基本変わらない防具をつけた竹刀稽古の様子が描かれています。
 ただ、竹刀は皮で包んだ袋竹刀です。
 そこで気になったことがあります。柄の握りです。両手の拳がほとんどくっついているのです。どんな構えでも変わりません。
 北斎はこういう細かいスケッチは正確な画家です。またバランスから考えたら、現代の竹刀より柄が短いようです。
 これには違和感を覚えました。
 何故なら、幕末から明治にかけて残る剣士の写真には、えらく長い柄の竹刀を扱う画像が沢山残されているからです。
 これらは明らかに現代の竹刀より柄が長く見えます。したがって、両手の握りも間が大きく開きます。

 ぼくが冒頭に近衛十四郎を持ち出したのは、この幕末明治の剣道界の残像や江戸初期までの風俗絵にある野太刀のような長大な刀を腰に差す無頼漢の残像が近衛十四郎と重なり、明らかに長い刀を自在に使う者こそ強いという、単純で明快な結論が彼の侍姿に重なりリアリティがあると、ずっと考えていたからです。
 したがって、江戸期の道場稽古の竹刀は柄の長い長大なものを想像していたのです。ところが北斎のスケッチはそれを裏切っていたのです。
 これをどう考えたらいいのでしょう。
 
 ぼくは短い間ですが居合いを習ったことがあります。
 そこの流派では柄の短い刀を使い、両手で振り回すときは鍔元に両手をくっつけるように持って扱います。この形が振り回すとき一番バランスのイイ持ち方だと教えられます。
 そうです。北斎漫画の竹刀稽古の様子とそっくりです。
 ぼくはといえばその頃は、居合いは接近戦なので長い柄はじゃまなのだろうぐらいにしか考えていました。
 ところが問題はそう単純ではなく、居合いの祖である林崎甚助は短躯ながら三尺をゆうに越える化け物じみた豪刀を振り回していたことが知られています。勿論、柄はそれにに比例して長くなります。
 また、北斎が写しとった袋竹刀は現代の竹刀より短く、江戸期に決められた定寸の刀の長さにそくして作られていますから、スケッチの持ち手の形は定寸の本身を使ったときと近いと考えられます。

 しかしながら、幕末の彰義隊の戦いを写生した月岡芳年の錦絵を見ると、厚みと幅のある刀身に十分な長さの柄をもつ刀が精緻に描かれています。
 柄をつぶさに見ていくと、目釘が2つ以上の刀が頻繁に出てきます。
 実戦が多発したこの時代、刀は定寸のまま刀身はひたすら肉厚になり、造りも頑丈になったことが伺えます。
 そして、両の持ち手の開きは拳一つほどです。

 よくドラマで「おぬし、できるな」とか「一刀流とみた」いうせりふがありますが、あれは繰り出す技や構えもありましょうが、先ずは刀の長さや形・拵えでおおよその持ち主の腕や流派がわかり、シャーロック・ホームズなみの洞察力のある者は、さらに髷や衣装・言葉遣いを見て氏素性をたちどころに言い当てることができたことでしょう。
 さらに身体の特徴、袖からのぞく前腕の太さや面ズレや竹刀蛸の有無などをみれば習熟度が瞭然となったに違いありません。

by arihideharu | 2017-01-31 22:21 | 挿絵 | Comments(0)
町奉行所与力・同心一覧
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 『図説・江戸町奉行所事典』という重宝する本に、文久元年町奉行所与力・同心の一覧表が載っています。
 ぼくはここしばらく、こればかり見ています。相当地味ですが、どういうわけか飽きません。

 一般的解説本には、南北の町奉行所にはそれぞれ与力25騎と同心120人がいて、それが5組に分かれて組織されていると説明されます。
 その伝でいくと一組の与力の数は5名、同心は24名となります。
 ところがこの表を見ると、南町奉行所一番組では与力7名に同心25名で、二番組では与力9名に同心36名で、かなり不揃いです。
 これは雇用を世襲にたよる結果だと考えられます。
 ただ、二番組の与力9名のうち同姓が3組いるので、これは親子と考えられ、3名は実質見習いと想像できます。
 また、2番組同心の数が異様に多いのは、幕末の動乱に備えた増員のせいと考えられます。
 ちなみに文久元年は1861年です。

 次に目につくものは、同心が四つに分かれていることです。年寄・書物・添書物・同心の四つです。
 これは与力が将校にあたるなら、年寄同心が下士官で、平同心が兵卒と考えられます。また書物・添書物はその中間の地位と考えられます。
 想像を膨らませると、年寄は曹長で、書物が軍曹、添書物が伍長かもしれません。
 また元々、与力は騎馬兵で同心は歩兵ですから、人数比から考えると、騎馬兵一人に対し歩兵4・5人の編成ということになります。

 ちなみに、小説やドラマでおなじみの廻り方同心・約14名は、すべてこの上級下士官である年寄です。
 しかも、上司(与力)を持たない特殊な部署です。となると未熟な与力など、この者たちに従うしかなっかたと想像できます。

 また、ほかの年寄同心の所属部署を表の並びで見ていくと、年番方同心6人のうち2名が年寄同心です。次の本所方の同心3人のうち2名が年寄です。
 このことから本所方は意外と重要な役目であったことが伺えます。
 意外と言えば、かなり重要と思われる裁判職の御詮議役に筆頭与力の名は載っていても、年寄同心の名がないことです。
 これは同心においては、内勤より外勤重視という町奉行所の性質からと愚考しています。

by arihideharu | 2016-11-03 09:58 | 挿絵 | Comments(0)
二人展(巡回展)が終わりました。
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『ANAGRA』で行われた、安里英晴・城井文平/二人展(巡回展)が8月19日に終了いたしました。
お盆期間でしかも暑いさなかに関わらず、様々な方がお見えになり感謝をしているところです。
今度も色々なことを勉強させていただきました。
ありがとうございます。
あらたな制作意欲が湧いてきた二人です。
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by arihideharu | 2016-08-24 15:39 | 挿絵 | Comments(0)
巡回展のお知らせ
4月に開催した展示会の巡回展が半蔵門で行われます。
下記『ANAGRA』は70年代を思わせる、若き美大系ミュージシャンが運営するギャラリーです。
前回見逃した方など、お越し下されば幸いです。

新作も追加するつもりです。またトークショーも計画しているようです。


by arihideharu | 2016-07-27 22:37 | 挿絵 | Comments(0)
忍者が背負う刀
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(前回座蒲団続き)時代考証的いい加減さなら、ぼくもちょくちょくやっています。
 例えば忍者の背負う刀の位置です。

 時代考証家の名和弓雄さんは、刀を背負う場合、柄が左肩にくるのが正しいと書いています。
 子供のころ毎日忍者ごっこをした身のぼくにしてみれば、この一文を目にしたとき、相当ショックを受けました。早速試してみたのは勿論です。まだ若かったころです。
 
 まず左肩に背負い抜いてみました。楽にあっさり抜けます。これには相当驚きました。ただ、腕が顔をジャマする欠点があります。
 次に右肩に背負い抜いてみます。これには少しこつがあります。それは左手で鞘を持ち、抜くと同時に下へ引いてやるのです。
 この方法は佐々木小次郎のような物干し竿は難しいとしても、そこそこの長さの刀ならさっと抜けます。
 この一文を書くにあたり、久しぶりにやってみました。ところが、不覚にも躰が堅くなり、腕が背中に回りません。したがって、実証できませんでした。
 
 ただ、ぼくのチャンバラごっこの経験から、刀を背おった場合、抜くことが出来ても、丹下左膳同様、納めることがなかなか出来ません。しかも動き回るに、しごくジャマです。
 床下や天井裏に潜り込むには、躰との一体感がありません。
 チャンバラ小僧の立場からいえば、白土三平のカムイ式に小太刀を帯の後ろに指すのが一番合理的だったと思います。
  
 実は、このことは名和さんも指摘しています。
 つまり忍者は刀を背中ではなく腰に指し、時に応じ差し位置を変えていたというのです。
 したがってぼくの結論では、忍者が刀を背負う姿はフィクションで、右肩でも左肩でもどちらでもイイと思っています。
by arihideharu | 2016-04-28 05:17 | 挿絵 | Comments(0)
座蒲団
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 座蒲団が普及するのは明治以降とされています。
 これについて時代考証家の林美一さんが面白いことを書いています。
 テレビ時代劇の撮影現場に林さんは珍しく呼ばれます。そこで時代考証家として、座蒲団の不都合を指摘し、撤去させます。
 ところが日をおいて、再び現場を見渡すと、座蒲団がまた敷かれています。そんなことが何度か繰り返します。
 観察した結果、撮影所のスタッフには座蒲団は敷くものだという意識が習わしのようにしみついていて、簡単に直せるものでないことを悟ります。

 また、どこで読んだのかは忘れましたが、時代劇が沢山作られていた時代、御大とかスターと呼ばれる役者が座ろうとすると、休憩時でも撮影時でもどこからともなく取り巻きが、座蒲団をさっと尻の下に差し出したというものです。
 ぼくなどは、市川右太衛門あたりの顔を浮かべ、思わず吹き出してしまう話です。

 いずれにしろ、芸能の現場では時代考証など、うっとしいものだったのに違いありません。
by arihideharu | 2016-04-23 05:18 | 挿絵 | Comments(0)