ブログトップ | ログイン
わくわく挿絵帖
sashieari.exblog.jp
カテゴリ:映画・演劇( 43 )
パリに降る雨。映画『ミッドナイト・イン・パリ』より
b0185193_22121858.jpg


 しとしと降り続く雨の中、近くの運動公園を傘を差しながら散歩をしていました。バックネット裏から青葉に囲まれた野球場と陸上トラックが見えるあたりにさしかかったとき、iPodからR&Bの名曲、エタ・ジェームズの『At Last』が流れました。近頃、繰り返して聴いている曲です。ぼくは立ち止まりながら、このシーンは最近見たばかりだと思いました。
 
 やがて、ウッディー・アレンの映画『ミッドナイト・イン・パリ』のタイトルバックにそっくりだと気がつきました。
 
 その映像はパリの町を人の見る高さから固定カメラで撮らえていて、写っているのは観光地のパリではなく生活者のいるパリです。
 
 信号が変わって交差点を渡り始めるビジネスマンの群、東京でもニューヨークでも変わらない朝や午後の風景です。そこに雨が降ります。バックには古いジャズがソプラノサックスのリードでスローなテンポで優しく流れています。
 
 ぼくの目には、段々とパリの町角が安藤広重の描く江戸の町に見えてきました。都市に降る雨は一瞬、古今東西に関わらず共通の美を生むのかも知れません。
  
 あるいは単に、しとしと降る雨の景色を気に入った名曲を流しながら見ると、魔法が掛かったように、普段見ている景色でも異次元の美しさになるということかも知れません。
 
 それにしても、映画『ミッドナイト・イン・パリ』のタイトルバックは、これまで見たことがないほどの美しさで、これだけでもこの映画を観る価値があると思ったほどでした。
by arihideharu | 2012-07-12 22:16 | 映画・演劇 | Comments(0)
「赤ひげ」における帯締め
b0185193_18405234.jpg


 黒澤明の映画「赤ひげ」でドラマ前半で内藤洋子演じる武家の娘が、加山雄三演じる青年医師を小石川養生所に訪ねるシーンがあります。若き内藤洋子が可憐に演じているアレです。髷はきりっと島田に結い、帯も文庫に結んでいます。そしてその帯には白く太い丸ぐけの帯締めが結ばれています。

 実はこれは結構重要なことで、あるいは事件だとぼくは思っています。それは時代考証にうるさかったと思われている黒澤明がこれを許しているからです。これとは帯の上から結ぶ帯締めのことです。

 というのは江戸時代は帯締めはしないというのが基本だからです。それは多くの錦絵を見ても分かります。帯締めをしている絵を探すのは相当骨が折れます。ないわけではありません。まれに幕末期の芝居絵や大奥をテーマにしたものに丸ぐけの帯締めをしたものがあります。一般の女性の中にそれを見つけるのはさらに大変になります。ただ、明治まで数年を残した幕末を撮った写真を見ると組み紐の帯締めをした女性がちらほら見つかります。

 時代考証家で映画にもたずさわった林美一さんの「時代風俗考証事典」を見ると、嘉永以前に帯締めの資料はないそうで、鞍馬天狗や新撰組の映画ならともかく、それ以前の時代設定では許されないと書かれています。また嘉永以降でも御殿女中に限られるようだとも書かれています。
 とすると帯締めの使用は、幕末の嘉永以降と考えてイイようです。

「赤ひげ」における帯締めの使用は内藤洋子が演じる武家の娘だけではありません。香川京子が演じる狂女も歌舞伎の八百屋お七のように、振袖の着物に帯をふりわけにしてその上に太い帯締めをしっかり結んでいます。また内藤洋子の母親役の田中絹代は上等そうな帯の上に白い帯締めをきりっと結び、こちらは明治の上流婦人のようです。

 これはどうも確信犯的に江戸時代がもうすぐ終わることを感じさせるための演出ではないかと思えてきます。
 というのも映画の冒頭で加山雄三演じる青年医師に長崎帰りを表現するために舶来らしきマントを着せていますが、それと帯締めは呼応しているように見えるからです。

 しかし一方では林美一さんが「鞍馬天狗や新撰組の映画ならともかく」と指摘しているとおり、戦前のスチール写真をみると「鞍馬天狗」は勿論のこと、武家娘が太い丸ぐけの帯締めをしているのが定番のように出て来ますから、黒澤明は映画のしきたりに従っただけかもしれません。

 林美一さんが「時代風俗考証事典」を書かれたのは三十年以上前ですが、帯締めの誤用がいっこうに改まらないことを嘆いています。

 ぼくが映画「赤ひげ」における帯締めをとりわけ問題にするのは、黒澤映画で帯締めを許したのがこの事態を助長したのではと睨んでいるからです。買いかぶりでしょうか?


b0185193_524418.jpg

by arihideharu | 2011-12-11 19:51 | 映画・演劇 | Comments(0)
「一命」
b0185193_4344285.jpg



 映画「一命」を見ながら、ぼくは終始首を捻りました。理由は全編を被う、くたびれ薄汚れた江戸の風景です。

 映画の時代設定は寛永年間。江戸初期です。徳川は葦原と原野の地に幕府を開き、お城の周りに大名旗本の屋敷を置き、大わらわで町普請を始めます。一方では島原の乱もあり、人の気分はまだ戦乱の世から抜け切れぬ時代です。

 ぼくはこの映画を見ながら、桂三木助の名演「三井の大黒」をカットバックするように思い出していました。

 落語「三井の大黒」にはこんなシーンがあります。江戸のイナセな大工の棟梁が、行き倒れのような老人を見つけます。そしてその老人が西から来た大工だと知ると、こう切り出します。

「仕事は山ほどあるが、どうにも人手が足りねー。俺んとこへ草鞋を脱いでいかねーか。三年でも五年でも働けば、懐を暖かくして国へ帰ぇーれるぜ」

 ところが草鞋を脱いだのはいいのですが、飯を食って寝るばかりで一向に働く気配がありません。とうとう痺れを切らした棟梁、こう老人に説きます。

 「江戸は火事ばやい所だから、立派そうな家構えで、百人の手間が掛かっているなと思っても、中を見ると八十人の手間しか掛かっていない。また火事になると思うからどうしても雑になる…。江戸の大工の仕事はこんなもんだから、お前さんのような西の大工は腕が落ちることはあっても、決して腕を磨く所じゃねー。お前さんも、江戸見物が済んだら、そろそろ国へ帰ったらどうだ」棟梁はこの老人が使い物にならないと踏みます。

 ご存じ、江戸の大工が、大工の神様「左甚五郎」にそれとは知らず、文字通り「釈迦に説法」をする触りです。

 この噺は江戸中期以降の設定と思われますが、それでも江戸初期の新しく町が膨れ上がっていく雰囲気が浮かびます。また、江戸は京都などと違い常に新しい町だったことも伺えます。

 おそらく、江戸初期は原野のあちこちに新しい普請場が建つ一方、お城の周りは大名屋敷が壮麗さを競い合うように建ち並び、またご城下には町人地と寺社地を整え、都市が機能し始めた活気あふれる時代と思われます。

 ところが「一命」に見えるのは、くたびれ果てた江戸です。なんだか情けなくなりました。

 ぼくは映画「切腹」をリメイクをすると聞き、二つのことが思い浮かびました。冒頭の井伊家三十五万石の格式の表門をどう撮るかということと、主要場面である井伊家邸内のセットをどう造るかです。

 表門は京都辺りの文化財を使うにしても、CGを使って木部を黒塗りにして門金具を金銀に換え、桃山風の華麗な造りにすることは出来ないものかと、勝手に考えました。そして、井伊家邸内だけは溝口健二も黒澤明も裸足で逃げ出すようなセンスが良くスケールのでかいセットを造って欲しいと心から願いました。

 ぼくは井伊家の質実であり華麗な佇まいの邸内を空想していました。ところが出て来たのは、墨汁で襖や壁あらゆるものを汚したように見えるセットです。ぼくには悪夢でした。また、ロケ地も寛永期の江戸には見えませんでした。

 そもそも江戸は新開地です。人文を重ねた地蔵群も、古寺も似合いません。

 「十三人の刺客」で 監督・三池崇史は、ぼくらが待ち望んだ素直に温故知新を標榜する時代劇を作ったように見えました。今回は的が外れたようです。

 映画は「夢の塊」ですが、悪夢はいけません。

b0185193_4332950.jpg

by arihideharu | 2011-10-27 04:53 | 映画・演劇 | Comments(0)
ゴジラの脚
b0185193_0172138.jpg


 ぼくの子供時分のお盆映画というと「ゴジラ」でした。今から考えると、子供の夢を乗せるにしては随分と暴力的な映画で、人間の文明や秩序を破壊して廻るヒーローですから、かなりアナーキーで危険な映画だったことに気がつきます。
 
 見せ場は勿論破壊シーンです。円谷英二の特撮はスローモーションを多用し画面の一枚一枚が耽美的で、見るものに恍惚感を与えました。まるで、破壊する快感と滅び行くカタルシスを子供達に学習させているようでした。そして、それを支えていたのは限りを尽くしたリアリズムでした。

 ところが限界もありました。肝心要のゴジラが小さな子供が見てもすぐ分かるような着ぐるみ…。人が中に入っているのがバレバレで、特に後ろ脚が獣の脚ではなく、歌舞伎に登場する馬の脚と同様で間抜けな膝っ小僧が見えるようでした。

 これでこの映画は作りごとだと鼻っから分かる仕掛けです。なーに浅草奥山の見せ物と変わらぬと固唾をのみながらも、どこかで安心しながら見ていたような気がします。

 その後ハリウッド映画の特撮方ハリーハウゼンが、ゴジラの特撮を「子供だましだ」というようなことを言っているのを聞き、膝を叩きました。

 実はぼくはゴジラより、ほぼ同時期に見たギリシャ神話を題材にしたハリーハウゼン監督の「アルゴ探検隊の大冒険」の方が大っぴらには言いませんでしたが贔屓でした。コマ撮りの怪物の方が合理性があると感じていたからです。
 
 ただ、「どこかで安心しながら見る」というのは娯楽映画の王道だというのも明々白々な事実です。特に子供には必要でした。

 それから数十年経って、スピルバーグによって作られた「ジュラシックパーク」のなかで、原を駆ける恐竜の群れを見たときです。ぼくは嗚咽し涙が止まらなくなりました。何故なら、間抜けな脚を持ったゴジラではなく本物のゴジラがいたからです。人類が初めて恐竜を目撃した瞬間です。

b0185193_0284522.jpg

by arihideharu | 2011-07-08 00:37 | 映画・演劇 | Comments(0)
映画「ブラック・スワン」
b0185193_2374082.jpg


 総ての芸術は現実を模倣するところから始まります。この模倣力において映画はカメラという機械を手に入れたことによって、他の芸術手段と比較にならない程のアドバンテージを持ちました。そして、ストーリーと音楽が加わります。我々はさらに無防備に映画の中に入り込み、現実との境目をなくしていきます。

 映画「ブラック・スワン」はナタリー・ポートマン演じる若きバレリーナが、初めての大役を目の前にし、そのストレスから現実と自己の幻想世界との境目が分からなくなる恐怖を描いた作品です。

 見どころは、近年のCGや特殊メイクの進歩と演出の妙によって、現実と幻想の境目が消え、我々も主人公と同様の恐怖体験をしていくところにあります。

 そして、もうひとつの見どころは女優ナタリー・ポートマンが物語が進むにつれ、いつの間にかドキュメンタリーを見るように現実の若きバレリーナが世紀のプリマドンナに成長していくのを目撃している気分にさせます。

 以上のように映画「ブラック・スワン」の最大の魅力は、多くの境目が透明化し、なんのストレスもなく彼女の狂気を共有化することにあります。

 この境目の透明化は映画の本質であり、作る上での目標でもあるので、映画「ブラック・スワン」は見事に一直線に成功した最高の作品と思われます。

 しかし、総てがうまくいったと思われるこの作品、どこか腑に落ちないところがあります。おそらく、すべての境目が消えたために見る者の想像力をかき立てたり、感情移入したりという隙間がなくなったせいと思われます。ですから、これ以上の映画はないと思わせる反面、どこか寂しくなる映画でもあります。


b0185193_2381259.jpg

by arihideharu | 2011-06-01 02:54 | 映画・演劇 | Comments(0)
絵に描いたような八丁堀の旦那
b0185193_23365764.jpg


 ぼくの仕事は時代小説の挿絵を描くことですから、見たことのない物や事をそれらしく描くという作業になります。そしてその大半は人物を描くことに費やされます。  

 人物を描くにあたって、最もやっかいなのが髷(まげ)です。理由は簡単で現代において本物を見ることがないに等しいからです。

 そこで参考になるのは映画や芝居ということになります。只、映画や芝居で見る髷はカツラですから、基本的に大げさにデフォルメされています。故に、そのまま写すとそれらしく見えません。その結果、参考にしつつもアレンジを加えながら描くということになります。

 小説の中で最も多く出て来る髷の名の一つに、町奉行所の役人と一目と分かる「小銀杏」とか「小銀杏細刷毛」といわれる髷の形があります。これは武家の髷と町人の髷を足して合わせたような、八丁堀風とよばれる独特のスタイルです。特徴は髱(たぼ)と呼ばれる後ろ髪を少し膨らませている反面、チョン髷が普通の侍スタイルより細く短くきりっと結ってあります。

 しかしながらこの髪型、活字ではよく見るのに映画やテレビで見ることは皆無と言われています。つまり「むっつり右門」も「中村主水」もどういう訳か八丁堀風の「小銀杏」にはなっていません。

 ところが近ごろ集中的に見ている初期市川雷蔵作品の中に、この八丁堀風「小銀杏」を結い、黄八丈の着物に黒の巻羽織…。絵に描いたような八丁堀の旦那が出てくる一本を発見しました。1963年製作、監督・森一生、脚本・小国秀雄による「昨日消えた男」です。

 ハードボイルドな題名からも推察されるようにミステリー仕立ての作品です。雷蔵演じる主人公八代将軍吉宗が探偵趣味が高じるあまり、大岡越前守に頼み込んで八丁堀の同心にしてもらい、難事件を解決をするという荒唐無稽の極みのような軽いのりの作品です。

 これがちょっと幸せな気分にさせてくれる秀作で、冒頭は江戸湾に浮かぶ二艘の弁財船のシーンから始まります。これがドキュメント感があって、これだけでぼくはうっとりしてしまいました。また江戸の町のオープンセットも本当に美しく、時代劇の絶頂期の美は正にここにありと思わせます。

 言うまでもなく名監督・森一生の師匠は時代劇の神様・伊藤大輔であり、小国秀雄は黒澤明に鍛えられた脚本家です。また大映の美術は溝口健二の洗礼を受けています。

そうした中で、市川雷蔵が演じる絵に描いたような八丁堀の旦那が登場します。幸福の極みです。

b0185193_23374696.jpg

by arihideharu | 2011-05-27 00:00 | 映画・演劇 | Comments(0)
映画「ウォール・ストリート」
b0185193_19141987.jpg


 映画「ウォール・ストリート」を妻と見終わって、ぼくは「面白かった?」と聞きました。妻は首を二度横に振りました。「どこが面白くなかった?」とさらに聞くと「マイケル・ダグラスが何をしたいのか分からない」と答えました。ぼくも「その通り」と思いました。しかし、妻と違いぼくはかなり面白いと思いました。

 映画「ソーシャル・ネットワーク」が天才的青年を通して描いた社会派ドラマなら「ウォール・ストリート」は天才的中年ギャンブラーを通して描く社会派ドラマで、両者は良く似た構図に見えます。しかし「ソーシャル・ネットワーク」は最後まで緊張の糸が切れずに終わりますが、「ウォール・ストリート」はチャーリー・シーンが登場するあたりから緊張の糸がゆるゆるで、思わず苦笑いです。

 ところが、ぼくはこのゆるゆる感が途中から奇妙な快感に思えてきました。主人公(マイケル・ダグラス)が株屋という名のギャンブラーですから、命がけの勝負をし、やられたらやり返す、それもイカサマを使って。これが主な筋立てです。

 この複雑不可解な現代社会を単純なカウボーイ映画のようにして片付けてしまう、この明るさと雑さが、この映画の最大のとりえです。見終わったあと、ぼくはかつて植木等やフランキー堺が出た映画の中にこんな快感を覚えたの映画があったことを思い出していました。それはエンドロールにながされる青空とレゲエ風の歌のせいかもしれませんが。

b0185193_1915144.jpg

by arihideharu | 2011-02-28 19:35 | 映画・演劇 | Comments(0)
「これほど面白いアメリカ映画はいつ以来だろう?」
b0185193_0561853.jpg


 公開中の映画「アンストッパブル」と「ソーシャル・ネットワーク」を見ました。

 「アンストッパブル」は乗り物を使ったパニック映画で、最初から最後まで一気に楽しめる映画でした。とは言え、こういう映画は決められた型があるようで、スタート5分で結末や過程がうっすら見えてきます。したがって、先日のサッカーアジアカップ戦を見るようなドキドキ感にはほど遠く、練習試合を見ている感じで終わります。

 一方「ソーシャル・ネットワーク」はかなりのドキドキ感がある良質な青春映画です。しかも、主人公は天才という設定。古くは「モンパルナスの灯」あるいは「アマデウス」「グッド・ウィル・ハンティング」などの名作を連想させます。只それらより圧倒的に優れている点があります。それは主人公がいま実在し、物語もほぼ現在進行中の出来事を扱っていて、フィクションでありながら現実との境目が希薄という仕掛けです。

 映画の楽しさの一つには見ているうちに主人公と一体となり恋や冒険をし、時には映画の中で歌ったり踊ったりするところにあります。しかしこの映画は主人公が天才という異常人ですから、感情移入し共感を持ちつつもどこかに違和感があり一体とはなりかねます。どうもこの一体となれない主人公との距離の不安定さがこの映画の最大の魅力と思われます。多分、一体となれないもどかしさが、我々一人ひとりの現実と似ているせいかと思われます。誰もが自分に違和感を持ちながら生きていると考えるからです。そしてまた、この主人公のように暴言を吐いたり、嘘をついたり、人を裏切ったりそれら総てが日常そのものだからでしょう。

 見終わったあと、「これほど面白いアメリカ映画はいつ以来だろう?」とぼんやり考えていました。


b0185193_0431711.jpg

by arihideharu | 2011-02-07 01:00 | 映画・演劇 | Comments(0)
「最後の忠臣蔵」
b0185193_21425244.jpg


 怖い話しと泣かせる話しは苦手なので映画「最後の忠臣蔵」は世評に高いようでしたが避けてきました。しかし正月映画を選ぶとしたら、やはりこれかなと思い直し妻と一緒に見に行きました。

 評判どおりクライマックスに近付くと、あちらこちらからすすり泣く声が聞こえます。ぼくも妻も例外ではありません。期待どおりと言えます。

 昨年は池宮彰一郎絡みの時代劇作品が2本ありました。言うまでもなく「十三人の刺客」とこの「最後の忠臣蔵」です。どちらも主人公が最後に死ぬ話しです。

 池宮彰一郎の作品は侍の生き方がテーマですから、最後は戦って斬り死にするか自刃するしかありません。生き残る選択肢を捨てたところから物語が始まります。

 考えてみると、これはかなり異常なことで日常レベルではありえません。しかし、映画人であり小説家であった池宮彰一郎はこのことにこだわりました。多分、戦時中に多感な青春期を送ったことと大きな関係があると思われます。

 同じ戦中派の映画人鈴木清順は「大正生まれの理想は野垂れ死にすることだ」と歯切れいい江戸弁で言っていたことがありました。独特の死生観です。

 また、池宮彰一郎も座談の話しの流れで「名人上手と云われている職人さんでも生活ぶりは、貧乏なものです。半ば飢えている。物書きも似たようなもので、そういうものだと思っている」そんなことを言っていました。

 そして、あれだけ売れていた池波正太郎も住んでいた家も仕事部屋も余りに質素なので、掲載されたグラビアページを見て唖然とした記憶があります。

 いずれも大正末期に生まれ、兵隊として負け戦のなかを青春を送った者たちです。彼等の微妙で複雑な人生観はいつもぼくを惑わせます。それはいつでも死を隣に置いて己の生き方を問うていたからだと思われます。

b0185193_21434358.jpg

by arihideharu | 2011-01-10 21:52 | 映画・演劇 | Comments(0)
「めまい」

b0185193_138149.jpg


 先週あたりまでBSでヒッチコック特集をしていました。その中でぼくは「めまい」を見ました。数多い名作の中で特にこの作品を見たいと思ったのは、勿論キム・ノバックを堪能したいというのもありますが、実はジェームズ・スチュワートが演じる主人公の昔の彼女が住むアパートのセットをもう一度じっくり見たいと思ったからです。

 彼女の職業は画家という設定で、アパートの広いフロアはアトリエになっています。このセットが実に素敵に出来ていて、こんなアトリエをいつか持ちたいと「めまい」見た当初からずっと思っていたのです。とはいうものの、このアトリエの細部の記憶はかなり薄らいでいます。ですから、再確認しておきたかったのです。

 20畳を少し超えるぐらいの部屋でしょうか。ゆったりとした窓には、すだれのブラインドが掛かっていて少し南国を思わせます。部屋の中央には商売道具の仕事机、イーゼル、壁にはたっぷりの本棚を置いています。空間はまだまだ残っています。そこにはささやかな台所とバーカウンター、ソファーや椅子がきれいに配置されています。空いた場所ではちょっとした運動も出来そうです。けっして大き過ぎず豪華でもないのが魅力です。むしろアメリカの基準からいったら、かなり質素かもしれません。

 こんなアトリエが欲しいと思ってから大分経ちますが、ちっとも実現せず、狭い我アトリエといったら、書き損じの下絵や資料の山は乱雑を極め、どこから手を着ければ片付くのか、正月を前にして嘆息をつき「めまい」がしそうです。

b0185193_1385498.jpg

by arihideharu | 2010-12-27 00:17 | 映画・演劇 | Comments(0)