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わくわく挿絵帖
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カテゴリ:絵( 16 )
「芳年展」
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 月岡芳年の作品を年代を追って観ていくと、ぼくらの知っている芳年調がより顕著になるのは明治の新政が開始してから10年20年と経ってからです。皮肉なもので、江戸文化を代表する「錦絵」は既にない江戸の風物を芳年一派がノスタルジーを込めて描いたとき、絢爛たる最後の華が咲き誇ります。
 この美しさは、アニメ「平成狸合戦ぽんぽこ」において、現代文明の中で滅びつつあるタヌキが「バケガク」の秘術を尽くし、滅んでしまった古里の山河や妖怪たちを蘇らせたときのような白昼夢を見るようです。思えばあれは、昭和日本のアニメーターの矜持でした。
 同じように明治20年前後、芳年たちはすでにない江戸を秘術を尽くし木版画などで蘇らせます。これは江戸町絵師の矜持と思われます。
 浮世絵はこの世の出来事を活写するのが最大のミッションのはずが、いつのまにか幻を描くことになります。
 
 絵描きは幻を描くとき、耽美的になります。芳年の場合それが特に顕著でした。彼は晩年、神代から始まる日本の歴史を絵にし、傑作を次々に生み出します。ぼくらがよく知っている装飾性と官能美が溢れるロマン主義の世界です。それはあたかもビクトリア王朝に登場した歴史物語に題材を求めたラファエロ前派の絵を思い出させます。芳年は浮世絵の世界を超え、より大掛かりな幻を描いていったのです。これは明治の新政が落ち着き、あるいは不満が渦巻いていたためか復古趣味の萌芽で、昭和の画学生なら誰もが好きな青木繁などの魁となったと思われます。

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by arihideharu | 2012-11-10 19:03 | | Comments(0)
「北斎展」から(一)
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 北斎先生もヘタな時期がありました。勝川春章という肉筆枕絵と役者絵のうまい師匠の門下にいた、修業時代です。大概、弟子というものは師匠とそっくりな絵を描くものですが、さすがと言うべきか北斎先生、春章門下でありながらあまり似ていません。それはこの時代、ヘタを意味します。

 と書き出したのは、三井記念美術館で開かれた大規模な「北斎展」を観たからです。圧倒的迫力のほかの絵と比べて、春朗と名乗っていた修行時代が余りに精彩を欠いていたからです。

 勝川春章一門の画集を観ると、北斎の二つ下に春英というのがいます。入門は北斎より先です。勝川派の表看板は役者絵ですが、春英は師匠や兄弟子の春好よりうまい役者絵を残しています。勿論、当時の春朗より遙か先をいっています。春英は誰よりも師匠の画風を正確に身につけ、なおかつ錦絵という新しい媒体あるいは技法に、うまく適応しています。しかも北斎先生のような狷介な性格ではないようすが、絵からうかがえます。実におおらかな絵です。役者絵では春章門下の白眉といえそうです。それを裏づけるように、春英の役者絵を観たあと写楽を観ると、「写楽は春英のパクリだ」と叫びたくなるほど、写楽の絵は春英に似ています。

 北斎に戻ります。北斎は春英と違い、素直に学ぶことが苦手だったと思います。この時代、最大の不幸かもしれません。しかも、癖っぽいところがこのころからあり、終生残ります。ただ枕絵だけは、それがあまり感じられません。男も女も美しく描かれています。意外にロマンチストだったのかもしれません。いや待てよ、北斎は春章の門を叩いたのは、表看板のほうではなく、枕絵のほうを学ぶのが目的だったのかも……。そう考えると、壮年期の枕絵の充実ぶりが納得できます。残念ながら、この「北斎展」から抜け落ちている大事な要素です。ぼくは枕絵をあまり観ていないので分かりませんが、春朗時代にいいものが沢山あるということはないのでしょうか。
 
 この「北斎展」はホノルル美術館にある、小説家だったジェームス・A・ミッチェナーという方のコレクションだと紹介されていましたが、そのコレクションの中に密かに春朗時代の枕絵が沢山隠されていそうな気がしてきました。

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by arihideharu | 2012-06-23 17:26 | | Comments(0)
「セザンヌ展」と「ポロック展」
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 あい前後して観た二つの展覧会は、よく似ていました。それはこの二人の画家が、新しい絵画の可能性を切り開いた歴史的有名人だという点と、双方とも初期作品から始まる大がかりな全容をもつ充実した展覧会だったことです。
 
 それに加え見終わったぼくは二人の初期作品が、よく似た特徴をもっていることに気がつきました。厚塗りされた黒っぽいく沈んだ絵柄がモチーフやスタイルが違うのに、印象が共通するうえ、両者とも上手いとは言えず、そのヘタさの程度が相似形に見えたのです。
 
 とくに、セザンヌが生きた19世紀末は、ルネッサンスから異次元に突入した西洋絵画の完成期で、精度の高い絵を描く職業画家がたくさんいた時代でしたから、そのヘタさはかなり際立ったと思われます。それににも関わらずセザンヌは悠然と戸外に出て写生を始めます。
 
 元来ぼくは、この時代の画家ならドーミエやドガ、ロートレックなどのデッサン家が好きです。ところがセザンヌにいたっては林檎ひとつさえ、確かな線で形をとることを拒んだ画家ですから、ぼくが好きになる要素がないはずなのに、ぼくは昔からセザンヌに惹かれました。それは山野にイーゼルをたて、写生をしたことのある人ならセザンヌのすごみが分かる仕掛けが絵の中に隠されているからです。

 画家は気に入った景色の前にキャンバスを置きます。そして、景色を見ながらパレットで絵の具を調合し、キャンバスに色を置いていきます。写生は時間が勝負です。陽は常に移ろい、すぐに陰ります。そこでは、画家は一心に描くしかありません。ひと筆、色を置く瞬間です。写そうとしている風景と今まさに置いた色が、甘美に共鳴し合っているのに気がつきます。そのとき画家はかつて経験したことのない法悦の中に誘いこまれます。
 
 この日以来、画家はあの快感を繰り返すべく山野にイーゼルを立て続けます。しかし、あの法悦はしょっちゅう来るわけではありません。とくに、へぼ画家にはめったに来ません。ところが、セザンヌは生涯写生を続け法悦を繰り返します。彼はアフロディテに気に入られた特別な画家だったのです。

 セザンヌは写生を始めると、にわかに薄塗りになります。カラーチャートを重ねたような筆致です。その置いた色のひとつ一つが、風景と絵と画家が三位一体となり美の女神と逢瀬を重ねた印です。この痕跡は、短時間で仕上げた未完成と思われる絵のなかにより鮮明に現れます。なかには形は崩壊し、一見なにを描いたのか分からないような絵もあります。

 しかし、一度でも写生画を志したものなら、このあわただしく描かれた絵の中に、美神との逢瀬を成就させる方法が、解を得た数式を見るようにまざまざと表されているに気がつくのです。これが近代以降、絵を志すものがセザンヌを特別視する理由と思われます。

 絵画は進化し、ポロックにいたります。ポロックは絵の具をキャンバスに塗る(置く)のではなく、投げつけ、あるいはたらす方法を見つけます。美神に近づくには、絵描きの作為はもはや不要と思ったのでしょう。それはまぎれもなく写生画にたどりついたセザンヌの末裔の証です。つまり自分以外の力を取り入れる方法を進めていったのです。

 このアクション・ペインティングと呼ばれた描き方は、過激で暴力的イメージとは裏腹に、間近に見たものは驚きます。あまりに精緻で蒔絵のような工芸品を思わせるからです。あるいは修行を重ねた僧侶の墨跡のようにも見えます。パッションや思いつきで出来る代物ではありません。
 
 それはフリージャズにたどりついたサックスやフルートの音色が尺八や篠笛に聞こえたりするのと似ています。芸術家の実存や魂を露出させるには、周到な準備と修行が必要だなと思う瞬間です。

 ただ、セザンヌとポロック、なにもかも似ている訳ではありません。セザンヌは見終わったあと、ぼくはちょっと幸せな気分になりましたが、ポロックの場合はそれはなく、彼の孤独に感染したのでしょうか、不安がよぎりました。その正体がなんなのかは分かりませんが……。

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by arihideharu | 2012-06-12 13:20 | | Comments(0)
肖像画
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 時々無性に食べたくなる近くのラーメン屋の壁に、中華麺の歴史を紹介するポスターが貼ってあります。それには大仰にも歴代の中国皇帝の肖像画が十点余り顔だけトレミングして、飾りとして使っています。
 
 ラーメンを食べながらその肖像を見ていたら、その半分以上が真正面から描かれていることに気がつきました。シンメトリーの構図です。ぼくはちょっと驚きました。

 日本の古い人物描写は真正面から描くことは稀です。天皇や将軍の肖像にしても少し斜めから描くのが常です。ごくたまに滑稽さを表現するためにあえて真正面を使うことがあります。おかめひょっとこの類です。あとは群像の中で貴人を浮き立たせるために、ひとりだけ正面を向かせることがあります。「そう!」、仏画はシンメトリーですがこれは例外です。

 ここまでは連想ゲームのように、ラーメンを食べているうちに浮かびました。すると朝鮮など他の国はどうなんだろうという疑問が生まれます。

 さっそく家に帰って朝鮮王の肖像画をネットで検索しました。中国の遣り方を踏襲しています。琉球もこの遣り方です。東南アジアはよくわかりませんでした。

 日本はこのシンメトリーの構図が嫌いらしいという事実が少し浮かび上がります。

 ところが写真の時代に入り状況が変わります。我々は真正面の顔に違和感を覚えなくなります。現在ほとんどの写真ポートレートはこれです。現代人は肖像画においては皇帝並みというこでしょうか。

 人物を左右対称に表現するのは極めて原始的遣り方です。幼児は正面の顔しか描けません。しかし最も力強い方法です。

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by arihideharu | 2012-03-19 04:38 | | Comments(0)
モデルをおく
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 大正期を代表する画家竹久夢二は、独特なシンプルな線と色で新しい時代の美人画を作り上げました。彼の描くメランコリックな女性の顔やポーズはパターン化され同じように見えますが、意外に竹久はモデルを実際におかないと絵が描けなかったと云われています。多分、そこが竹久夢二の斬新さと魅力の源になっていたと思われます。

 近代に入り日本の絵画は作画方法に劇的変化が起こります。すなわち人物を描くにあたってはモデルをおき、風景を描くにあたってはスケッチブックを抱え戸外へ飛び出します。

 画家はいったんこれを始めると、髪の毛一本、葉っぱ一枚描くのも実際に見ないと気がすまなくなります。癖になるのです。

 この癖はあらぬ方へものびます。竹久夢二と共通のモデルを使い、責め絵という独特のジャンルを作り上げた伊藤晴雨は、敬愛する月岡芳年の描く無惨絵、逆さ吊りにした産み月間近の腰巻き半裸婦図(奥州安達が原ひとつ家の図)を己の妊娠中の妻に実演させます。そして先達芳年が空想で描いたのを突き止め悦に入ったという逸話を残します。

 このように明治以降急激に竹久や伊藤ならずとも若い画家は、上達のために若くて美しい女性のモデルを確保することに多くのエネルギーを割くことになります。

 ところが面白いことにこの近代以降の画家のイメージは、それ以前の画家のイメージに影響していきます。例えば、映画や小説などでよく見かける、浮世絵師が目の前に評判の町娘にポーズをとらせ筆を走らせるシーンです。勿論こんなことは厳密にはなかったと考えられます。何故なら、美人画の春信・清長・歌麿などをみると、まだまだ顔やポーズは伝承され記号化されたパーツを組み合わせて絵を成立させているからです。この当時は様式を踏襲する意味の方が現実に即して描くより、今考えるよりはるかに大きかった思われます。

 しかし一方では、一人ひとりの人間の個性の違いを絵の中に表現する画家が出てきたのもこの時代です。写楽や渡辺華山の登場です。ただ彼らの描く対象は残念ながら男でした。新しい時代の美人画は明治になって、実際にモデルをおいて描くようになってからでした。

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by arihideharu | 2012-01-15 22:19 | | Comments(0)
謎の画家 小倉柳村
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 明治になって十数年経ったころ、小倉柳村という風景木版画家が登場します。徳川の世が続いていたら浮世絵師の範疇に入る画家です。

 美術史を覗いていると、極めて少数の作品しか現存しないに関わらず、歴史に名を留めている絵描きを見つけることがあります。彼等は多くの場合「謎の画家」と呼ばれます。絵以外に記録がないことが多いからです。その理由としては短命であったとか、売れなくて早々に止めてしまったとか色々考えられます。いずれにしろ残った少数の作品がどれもが圧倒的に良質であることとユニークであることが前提となる呼称です。

 メジャーな例としては、近年人気のフェルメールや写楽などがいます。しかしこの小倉柳村は謎の画家に違いありませんが、そんな輝かしい存在ではなく、あくまでひっそりしています。というのも記録に残る彼の活動期間は明治十三年から十四年までの二年で、その間九枚の錦絵を残したのですが、出来のいいのが「湯島之景」というタイトルの一枚だけだと言っていいからです。もしこの絵がなかったら埋もれたままと考えられます。それほどこの一枚だけはすこぶる名画なのです。尤も、ぼくが見たのは九枚中六枚だけなので、この断定は少々早まった表現かもしれません。

 柳村をぼくが始めて見てから三十年と経ってないと思います。明治を代表する風景浮世絵師「小林清親」を紹介した画集で見たか、あるいは歴史資料の中で見たと思われます。文明開化のこの時代、北斎・広重よって確立された風景錦絵は西洋画の手法を取り入れ変貌します。すなわち総てのものに陰影を描く試みを始めます。実行したのは明治元年に二十歳だった小林清親です。これによって木版画は石版画のような色合いと奥行きあるいは空気感を持ちます。江戸期の錦絵と違う点はそれだけではありません。陰影をより強調するために、夕方から夜の風景の割合が極端に多くなります。レンブラントやジョルジュ・ド・ラ・トゥールがとった方法論です。つまり光と闇の対比です。といっても漆黒の闇ではなく、仄暗い闇です。そんな夕闇の錦絵を描く一人に小倉柳村がいました。大体は小林清親の付録的扱いで紹介されることが多く、ぼくの認識もある時期まで似たようなものでした。

 それが、今住む小平市に引っ越したばかりの二十年ほど前、近所を車で散策していたとき、偶然見つけた「東京ガス資料館」という煉瓦造りの建物の中で、小倉柳村のオリジナルに初めて出会ったのです。

 この資料館は文明開化の象徴であるガス灯から始まる、ガスにまつわる歴史を珍しい蒐集品をまじえて紹介する博物館で、その一角にかなり充実した明治期の錦絵コレクションがあったのです。

 あれほど多くの錦絵を一同に見るのは初めてだったかもしれません。しかも未見のものが多く驚きました。その多くは三代広重はじめ歌川派の絵で占められ、明治らしい底抜けに明るい風景が洋館やガス灯、馬車・人力車、汽車・蒸気船などとともに描かれています。そして、ふんだんに使われた鮮やかな赤と藍の絵の具、初期の錦絵の色味とは雲泥の差です。それに見事なグラデーション…。まさに錦絵の完成期です。「ブラボー!」ぼくは思わず拍手を送りたくなりました。

 やがて階段を上り新しい階に入りました。それまでとは異質な一角があります。暗く沈んだ色合いの小林清親一派の作品群です。本物を見るのは初めてでした。

「なるほど…、これは新しい」と思いました。さっき拍手をしたくなった歌川派の連中はモチーフこそ文明開化ですが、絵そのものは江戸時代の延長線上にあります。しかし小林清親に至っては明らかに近代に突入しています。あの時代、彼のみが決然と新しい錦絵を拓くべく作画を試み呻吟したように見えます。多くの試行錯誤の跡がそれを証明しています。その勇気に感服するしかありません。
 
 小林清親が描く夕闇画は、それまでの錦絵と違う点は陰影をつけたという技術的点だけではありません。絵に新たに情感という回路を意識的に付け加えたようとしたふしがあります。というのは、夕闇は見る者に妙な気持ちを呼び覚ます装置なようなところがあって…、例えば郷愁とか哀切です。彼はある時期から意識的に夕闇を描くことによって、心の奥底に誰もが持っている、あるいは欲している何かを表現しようとしたのではと思うのです。おそらく、この心の中にある何かを表現することが小林清親にとっての近代だったと思うのです。

 しかし、小林清親の試みは必ずしもうまくいったわけてはありませんでした。悪戦苦闘の連続だったと思います。何しろ新しい錦絵を作ろうとしたのですから…。例えば影のつけ方を上手くやらないと絵全体が汚れて見えること、また上手くいったとしても今度は絵自体が日本の風景でなくなってしまうことなどです。それに技術的に克服しなければならない問題もあったことでしょう。パイオニアというものは大変です。

 そこに小倉柳村が登場します。彼は清親の方法論を踏襲します。決して上手い絵描きではありませんでした。というより素人くさい絵です。ところが一枚だけ清親以上に成功した絵が完成します。それが「湯島之景」です。
  
 小倉柳村は謎の絵描きです。小林清親の弟子であるのかも分かっていません。その日「東京ガス資料館」で多数の錦絵を個々に感動を覚えながら見てきたつもりだったのですが、家に帰って思いを巡らすと記憶に焼きついているのは小倉柳村の「湯島之景」だけでした。

 絵は真夜中の風景です。雲の合間から満月が見えます。手前は湯島の高台。そこに二軒の連れ込み宿の障子明かりに照らされて、印半纏の職人と黒衣の神父が、後ろ向きに並んで静かに立っています。眼下には上野神田界隈の町並みが江戸時代と変わらぬ姿を見せています。

 このくすんだ鶯色で縁取りされた絵には、不思議な磁場のようなものがあります。というのも見る度に、この絵に吸い込まれそうになるからです。

 若い絵描きは、たった1枚でも会心の絵が出来たらその場で死んでもいいと思うものです。小倉柳村はなんと幸福な男でしょう。いわば、一枚の絵の記憶しか何も残してはいないのですから。

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by arihideharu | 2011-12-22 04:10 | | Comments(0)