ブログトップ | ログイン
わくわく挿絵帖
sashieari.exblog.jp
<   2018年 04月 ( 2 )   > この月の画像一覧
鬼平犯科帳より『乞食坊主』
b0185193_21355357.jpg
『鬼平犯科帳』(池波正太郎・著)の中に『乞食坊主』という好編があります。
 
 筋は二人の悪党が、町中にある小さな社の裏手で盗みの相談をしています。会話がとぎれたとき、祠の床下からぬっと乞食坊主がにやけた顔で出てきます。
 悪党は悪事を聞かれたと思い乞食坊主を殺そうとしますが、人目があって一旦その場を離れます。
 時をおき二人は、坊主の寝込みを短刀で襲います。ところがこの坊主、寝ていたはずなのに素手で二人をたたきのめしてしまいます。
 それもそのはずで、彼は長谷川平蔵と同門の剣客で平蔵の弟弟子にあたる達者です。
 二人組は自分らで倒すのは無理とみて、大金をつみ、折り紙付きの二本差しの殺し屋を雇います。
 しかし、この殺し屋も乞食坊主の敵ではありません。
 タネを明かせば、殺し屋もまた長谷川平蔵と同門の剣客で、かつ乞食坊主が最も可愛がっていた弟弟子。木太刀の持ち方から酒の飲み方、女の抱き方まで教えた仲です。
 殺し屋は自分が殺そうとした者が、兄と慕っていた男と知り、泣いて詫びます。
 このあたり池波作品の特徴で、あり得ない偶然の積み重ねで、どんどん舞台は進みます。

 落ちぶれた同門の二人の侍、いずれも微禄とはいえ元御直参で、乞食坊主の方は跡取りでしたが父親の不行状でお家が断絶。 費えの道がたたれると不器用で曲がったことも出来ないこの男、乞食の道を選びます。
 一方殺し屋の方は、次男以下のいわゆる「厄介者」で、養子の道もなく、商いをする器量もなく、剣の才はありましたが一家をなすにはほど遠く、人の良さだけが取り得でしたがそれが災いし、悪の道に入ったという男でした。
 
 それまで世を捨て、ごく気楽に生きてきたこの乞食坊主も、可愛がっていた男の尋常ならざる境遇を救うべく思いをめぐらします。
 やはり頼るべきは、今世に聞こえし鬼と呼ばれる火付盗賊改方頭・長谷川平蔵。自分が兄と敬愛していた男です。
 彼は平蔵の役宅に乞食姿で訪いを告げます。

 すると門番から家士まで、顔をしかめ背けますが、平蔵は笑いながら招じ入れ、酒杯を握らせ積もる四方山話に興じます。

 このあたり池上文学の真骨頂です。
 彼の作品の美質は友情に篤きことと、交わりに老若貴賤を問わぬことです。
 しばし二人は酒杯を重ね、若き日の血潮の熱き日々を語り合います。

 彼の貴賤を問わない気風は、なにもヒューマニズムからくるものではありません。
 この世の貴賤貧富はちょっとした巡り合わせ。賽の目の加減で、どう転ぶか分かったものではない。今見えるものは仮の姿だという、彼の世界観からです。
 これは現代社会からみたら異風ですが、ちょっと前まで多分、日本全体をおおっていた世界観です。
 この世界観は現世だけでなく、前世も来世も含みますから、この乞食も別の世界では貴人かもしれないし、今権勢を誇る者も来世では人ですらないかもしれません。
 
 平蔵という男、始終命のやりとりをしていますから、三途の川の番人から閻魔様まで顔なじみです。
 したがって、己の来世は犬畜生かもしれないことを識っています。

 しかしながら鬼平たち、友との交わりは転生しても変わらぬものと思うところがあり、思うに彼らにとって武士道とはこの世を越えた式目なのでしょう。
 また乞食坊主の方も、現世は幻で、酔いしれて美女の膝枕で眠る己の夢が、この世の正体だぐらいに思っています。

 現世に未練を残さないのが剣客の心得の第一義のようで、この奥義を会得した者同士、つまり鬼平と乞食坊主との共感がこの作品の主題です。
b0185193_21361863.jpg

by arihideharu | 2018-04-30 21:37 | 読書 | Comments(0)
呉春と芦雪
b0185193_21344995.jpg
 司馬遼太郎の作に江戸中期の画家、呉春(1752−1811)と芦雪(1754−1799)をあつかった作品があります。
 歴史小説家の書くものの中に、絵師や文人を題材にしたものに傑作が多いような気がします。
 司馬さんのこの二作品もまた傑作で、時々思いおこし筋をなぞることがあります。

 松村呉春は二人の師匠につきました。二人とも日本美術史おける巨人です。
 最初の師である与謝無村は周知のように世俗を超克した俳人で画家でした。俳句は芭蕉と比され、絵は粋人好みの文人画を代表する一人でした。
 従って無村は貧乏でした。
 無村が亡くなって後、時の京都画壇の雄、丸山応挙門下となります。といっても弟子の扱いではなく客分格といわれています。
 わけは無村の内弟子で、かつ名手として名が知られていたからです。
  
 応挙は西洋流の写生を伝統絵画に取り入れたパイオニアとして、日本美術史において何人もいない革新者の一人です。
 世俗においても江戸期を通じ、東の谷文晁と並び天下第一の画家として、描くそばから高く売れる状況にありました。

 二人の師の画風は懐具合だけでなく両極にありました。
 無村はヘタを極めようとした画家で、応挙はウマサを極めようとした画家です。
 
 呉春は二人の師を深く愛しました。 
 彼の画才は二人に劣るものではありませんでした。
 およそ芸事は9割方才能で、あとは巡り合わせと執念で優劣は決まります。
 この師弟、来世で立場が入れ替わっていてもおかしくありません。
 
 しかし司馬さんは無村が相当お好きらしく、小説では才人呉春を継子あつかいし、器用なだけの凡庸な画家として描いています。

 ぼくは古くから応挙が気になっていました。
 何故なら、日本絵画史のなかで高校生以前の教科書レベルの知識で、ぴんとくる絵といえば、ぼくの場合、近世では琳派と浮世絵で、あとは円山応挙と渡辺華山ぐらいでした。与謝無村や池大雅は良く分かりませんでした。
 
 やがて高校生になり円山四条派の画集を側に置くようになると、応挙門下の呉春と芦雪が気になり始めました。
 何故なら彼らのやろうとしていることがぼくには良く理解出来たからです。

 長沢芦雪は呉春より二つ下で、いわば二人は応挙門下で歴史に名を残した竜虎で、特に芦雪は技においては師を越えるほどでした。
 これを剣豪小説に例えるなら、芦雪は師と道場で仕合、3本に2本は勝つことが出来る技の鋭さと勝ちへの執念があります。
 門弟や関係者の中には師を越える日も近いと言う者も、いや越えていると言う者もいます。また顔をしかめ、あれは邪剣だと言う者もいます。
 聡明さとうぬぼれが同居する芦雪は、半ば師を越たような気でいますが、真剣ならば師に勝つことは叶わぬことを知っています。
 温厚そうに見える師の剣技の恐ろしさを、良く知っているからです。

 呉春はというと道場において、たまに師に勝つこともある程度ですが、実践なら時を得ると勝かもしれないと人に思わせるところがあります。
 時々妙手を使うことがあるからです。
 ただ呉春には勝負を避ける癖があります。がむしゃらに勝とうとする気迫がないのです。
 これは呉春の性質と無村流から学んだものと思われます。
 しかし、勝つときは息をの飲むようなきれいな技を使います。
 また、こういう才は道場に置いておくと大層重宝しました。いつの間にか応挙流も会得し、いかなる技も上手に使い、初心の者から上級者まで上手に教えることが出来るからです。

 江戸期の人にとって、西洋流の写実主義は鮮烈な印象を残しますが、同時に疲労感を覚えました。
 応挙より前に写実を始めた伊藤若沖の彩色画がそうです。
 また、その後江戸中心で起きた蘭画は、さらに奇っ怪な印象を残すだけで、人をなごますことのない絵でした。
 この刺激は俗人には毒に見えました。

 しかしながら、京都は奥深い古都です。常に新しいものと古いもの求めます。したがって願わくば、この二つの同居を目の肥えた顧客たちは画家にもとめました。
 これを応挙はいち早く見事に実現します。
 しかしながら応挙は京都のパトロン達は欲深いことを知っています。
 彼らは常に茫漠たるものを求めます。
 顧客の多くは寺だからです。
 
 応挙は古くから、若沖と同年の無村にはそれがあることを知っていました。応挙は無村の画風と質は真似が出来ないと常々思っていました。そして、無村の茫洋とした絵を観るのが好きでした。
 呉春を側に置こうと考えたのは、それ故と想像出来ます。
 加え呉春は芦雪と違い、師の寝首をかくこともなさそうです。

 数百年経て、芦雪の斬新さの評価はますます高まり、彼の天才を疑う者はいません。
 呉春はといえば、その後新しい流派をうち立て多くの門人を育て、その流れは明治以降の現代日本画の礎の一つになったと伝えられます。
b0185193_21444411.jpg


by arihideharu | 2018-04-19 21:45 | | Comments(0)