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わくわく挿絵帖
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『トイ・ストーリー4』と『おもちゃのチャチャチャ』の間
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「どうして君は、大人になるんだろう」「どうして僕は、大人になれないんだろう」「どうして僕たちは、ずっと一緒にいられないんだろう」
 
 これは『トイ・ストーリー3』の見事なキャッチコピーですが、全4作に流れるテーマであり問い掛けです。
 「君」とはウッディと仲間のオモチャの持ち主、少年アンディのことです。また「僕」とはウッディであり、総てのオモチャのことです。
 
 『トイ・ストーリー』の最大の魅力は、本来動かない「物」が動くことにあります。
 僕たち観客はこのシリーズが始まった時から、すばらしいオモチャの動きにすぐに魅せられ、感情移入のスイッチがいきなりONに入り一緒に疾走します。つまり彼らがオモチャであることを忘れてしまうのです。さらに物語が進んで行くと、オモチャと観客の同化がさらに強化され、オモチャの持ち主は絶対的力を持った巨大な神か暴君のように見え、オモチャはその存在を敬いかつ恐る人類のように見えてきます。
 つまり上記のキャッチコピーの「僕」とは人間のことで、また「君」とは神もしくは暴君と言い換えていいほどです。

 さて、『トイ・ストーリー4』のことです。
 展開は過酷です。『トイ・ストーリー3』まで積み上げられてきた世界観が壊れるからです。いや進化して行くと言うべきでしょうか。特にウッディの人生観に恋人のボー・ピープの影響で著しい変化が起きます。
 すなわち3つの大いなる問い「どうして君は、大人になるんだろう」「どうして僕は、大人になれないんだろう」「どうして僕たちは、ずっと一緒にいられないんだろう」は、3つの諦観に変わって行きます。
 「君は、大人に見えるが実は子供と大して変わらない」「僕はどうやら少しずつ大人になり、しかも老いそして死に向かっている」「僕たちの別れは絶体避けられない真実であるが、同時に新しい出会いもあるらしい」です。
 さらに、このフレーズの「君」を「神」に、「僕」を「人」に置き換えてみます。
 すると「神は、我々とかけ離れた存在のようだが実は我々と等価である」「人は変わり、かつ老いて死んでいくものである」「人は出会いと別れを繰り返すものである」となります。

 『トイ・ストーリー4』はかいつまんで言うなら、活劇でもサスペンスでもなくラブストーリーです。
 それはウッディとボー・ピープの愛の物語であり、ウッディとその仲間との友情の物語であり、ウッディの持ち主に対する献身の物語です。
 しかし、僕がシリーズ1作目を見たときからずっと感じていたことは、日本人なら誰でも歌ったことのある『おもちゃのチャチャチャ』の世界観です。
「みんなスヤスヤ ねむるころ おもちゃは はこを とびだして おどる おもちゃの チャチャチャ」
 僕らは誰でも子供の頃、オモチャが箱を飛び出して踊る姿を夢想したはずです。この時多分僕らは、何にでも精霊が宿り、人と物は等価であるという感覚を味わっていたと思います。
 これは一種の宗教体験と言っていいのではないでしょうか。

『トイ・ストーリー4』はいわば上記の宗教体験のような感覚で結末を迎えます。
 しかし、そこにはツァラトゥストラのような呻吟はなく、オモチャらしく軽々とウッディとボー・ピープは永遠回帰に辿り着きます。
 ただその偉業は、彼らがルサンチマンとは無縁で、愛されたオモチャだったからなし得たのでしょう。


by arihideharu | 2019-07-25 21:10 | 映画・演劇 | Comments(0)
揺りかごのような名画座
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 名画座がふんだんにあったころ、週末の夜は深夜映画に行くのが日課だった時期があります。
 
 ある日、今村昌平特集の五本立てが掛かり池袋の名画座に入りました。
『神々の深き欲望』(1968年)『エロ事師たちより 人類学入門』(1966年)『にっぽん昆虫記』(1963年)『豚と軍艦』(1961年)などの名作ばかりです。
 周知のように今村作品は、味つけの濃厚さとボリュームにおいて群を抜いています。
 その日のぼくは若く、体力と集中力は十分だったと思います。
 しかし、堪能したのは上記の四本まででした。五本目の『人間蒸発』(1967年)では、ついに集中力が途切れ眠気に襲われました。
  
 この作品はドキュメンタリーで、インタビューを重ねていく手法です。つまり小さな事実を根気強く積み重ね、真実に近づこうというわけです。
 それまでのシナリオのあるドラマとはまったく違います。いわば同じリズムの繰り返しが続きます。これが睡魔を誘ったのです。
 ぼくはコックリコックリしながらも、なんとか映画に集中しようと努めました。
 その結果、寸断された映像と夢の断片が混じり合い、幻影と言葉が過剰な迷宮に入り込んでしまいました。けれども、そこは何とも気持ちよく、今から考えると軽いトランス状態というか、疑似幻覚症状が起きたような気がします。その時の不思議な感覚が、今でも残っています。
 ただ言えることは、観ていた映画が『人間蒸発』だったから不思議なことが起こったということです。というのはこの作品は実は実験映画で、所々に手品を仕掛けていたらしいのです。その効果が眠っていた僕に表れたと今は考えています。

 同時期にもう一つ、やはり名画座で気持ちよく寝てしまった思い出があります。
 場所は浅草です。
 その日は、浅草寺でお参りをしてから六区に廻り、演芸ホールでネタ下ろしだという若い噺家や、枕がやたらと長い老噺家などを聞いてから外へ出ました。
 まだ陽は高く帰るにはもったいない、どうしようかと思いながら通りをブラブラすると、映画の看板が目に入ります。
 名作娯楽映画の三本立てです。『兵隊やくざ』シリーズ(1965年から1972年)です。ぼくは映画館に入りました。

 このシリーズは勝新太郎の『座頭市』『悪名』に続く第三のヒットシリーズで、郷里にまだ映画館があったころ何本か観たことがあります。
 公開当時は確か田宮次郎の『犬』シリーズ(1964年から1967年)との抱き合わせで、子供だったぼくはガンプレイがある『犬』シリーズの方が圧倒的に好きでした。
 
『兵隊やくざ』シリーズは中国満州の戦線をコミカルに描いためずらしい娯楽作品です。とはいえ題材が戦争です。しかも時代的に役者・監督・スタッフ一同が何かしらの戦争体験者で、勿論兵隊帰りも大勢いました。ですから、映画から漂う雰囲気が尋常ではありません。おそらく細部から本物の戦争の臭いとルサンチマンが立ち込めていたせいでしょう。
 
 物語はだいたい五つの要素で出来ています。
 一つ目は勝新太郎演じる大宮二等兵が、生意気だというので日常的にリンチを受けるシーンです。二つ目は大宮を哀れみ助ける田村高廣演じる有田上等兵との熱い友情シーンです。三つ目はドンパチ、戦闘シーンです。四つ目は女郎屋のシーンです。五つ目は喧嘩に勝利するシーンです。
 
 多分映画はどんなにすばらしい作品でも、パターンが見えてしまい、かつ何本も続けて観ると眠くなります。    
 僕はこの罠にすぐにハマってしまいました。つまりは、揺りかごに入ったようにいい気持ちでウトウトして、女郎屋のシーンで目がパッと開くという具合でした。
 
 一応三本観終わって、外に出た時には戦争映画を観たというより、女郎屋のシーンだけが妙に頭に残り「あー、野川由美子良かったなぁ」「あんな女郎屋があるなら兵隊も…」などとひとりごちて…。これは浅草という場所の力でイイ夢を見たのだと、ぼんやりと考えたのを思い出します。

by arihideharu | 2019-07-01 00:01 | 映画・演劇 | Comments(0)